後ろ向きな人生もいいか…。
地震に事件。
最近、なんとなく落ち着かない社会環境。
南海トラフに関東地方の大地震、先日発表された確率論的地震動予測力地図を見れば、日本国内なんらかの地震の影響があるところばかり。
実際に、先日の学会の帰りも電車が止まり、次の日は大阪地震で大切な友人が車内に数時間閉じ込められ、私たちの生活は地震を避けて通れない。
また、あちこちで起きる傷害事件や子どもへの虐待報道。
こんな状態では、世をはからんで…となりそうなくらい暗い社会になっている…。
それでも、私たちは自分の生活を精一杯頑張って生きている。
社会がどうあれ、とにかく自分の生活で精一杯。
そんな状況もあるだろう…。
自分自身も例外なく、毎日流れゆく時間の中で生きていくことでせいいっぱいのところ。
それでも、周りを見ては「ああでもない。こうでもない。」と頭も心も動かしては、怒りや苛々がつのっていく。
そんなことをしていると、フッと気づくことがある。
それは、何も知らなければ、何も気づかなければ苛々もしなければ、怒りもなくて幸せなんじゃないかな…って。
知らなければ、心痛めることもないし、自分よりのも上を知らなければ今の現状に満足もできるのかもしれない。
陰口もそう。
知ってしまうから傷つくわけで、知らなければ笑顔でいられる。
そうか!
何も知らなければ、自分の中の世界で生きていけば傷つくこともなければ、人を傷つけることもない。
そして、誰かと比較して悩むこともない。
その方が、傷つかずに幸せなんだろう…。
それでほんとうにいいのだろう…か?
何か違うとは思うのだけれども、日々煩わしいことに追われていれば、そうした発想になるのは必然なのかもしれない。
心が弱っている状況は誰にでもある。
弱っているからからこそ、様々な困難に立ち向かう力など出てこない。
それどころか、どうでも良くなってしまう。
だから、それでいいのか?と問われても、心は動かないので、どうでもいいし、熱血に言われるとウザくなる。
今のまま…それで言いわけではない。
そんなことは、わかっている。
でも、理想が夢がみられるほど、語れるほど、心にはエネルギーが溜まっていない。
たとえ1人奮闘しても、ひとりではどうせダメなんだから…。
そう感じてしまって心は動かないまま。
時事ネタを得意とするコントグループのザ・ニュースペーパーの元総理のネタに「改革には痛みが伴う。国民にはその痛みをしばらく我慢していただきたい。我慢し続ければ、きっとその痛みは麻痺して感じなくなるから…」と、なんとも言えない風刺で笑いを誘ったネタですが、たしかに、最初は苦痛を訴え問題だと感じていても、それが続くと「しょうがない」という心がもたげて、気づくと諦めに似た麻痺がおきてくる。
多くの問題は無関心によって問題を麻痺させてきた経過は否定できないと思う。
ある意味、無意味な出来事の繰り返しで私たちは無気力になっていったのかもしれない。
そして、何もかも無意味という感情から心は動かないままになっていく。
淀んだ水が腐っていくように。
また、まるで古くなった腐りかけの卵の黄身のように、黄身と白身がしっかり別けられているどころか、黄身としての形さえ維持することなく、どろ〜っと今にも崩れそうな状態の自分がそこにいることに気づかされる…。
ならば、どうしたらいいのだろう…。
次回につづく…。