身近なこと(後編)思い込みと自身の弱い心
エンゲナ氏のいう「誰かを差別する」という部分。
そして、1人でも差別する人がいる限り平和は訪れないという視点。
LGBTや人種差別という特定のことではない、身近な小さな小さなひと言から始まる。
そして少数の誰か。
「“なんか”あの人、変だよね」とか「自分と考えが違う」など、“変”とか“違う”のは個性であり多様性でもあるはず。
しかし、“なんか”とか“自分とは”という個人の感情や感覚部分が含まれる自分との違いを、相手に対する対立的であったり否定にも似たような表現することで、個性ではなく差別という状況となって相手に向け、そして伝わっていってしまう。
私という個人の人生観レベルの価値観と、“決め付けや先入観から来る偏り。
その偏りは個々の意見の範囲であることを認識していればいいのですが、自身と同意見の者と、違いを人の多様性として見ることができるのであれば受容的にそして好意的な意識となっていくのだろう。
しかし、それが、“違う”ことが変なこととなって、一般化してその仲間が作れると、違いということがマイナスに捉えていってしまう。
そして、その仲間はその仲間だけで一致した意見であって、それも1つの意見でしかないのに、その集団(2人以上いれば集団)から外れると私たちとは違うと差別した行動になって行く。
そして、そうした仲間をトランプ方式で増やしていってしまえば、それは、さらに大きな隔たりを作ってしまう。
これは個人てきな視点であるが、そうした違いに対して、多様性として見ることができず、否定的に捉えてしまう心には、恐れや不安が内面にあり、自分にとって異質であったり、違う考えなどに対して、自己肯定や自己正当化するためにとる行動なのだろう。
言い換えれば、相手のエネルギーを受け止めるほどの力が自身にはないのだろう。
そもそも、受容することって相当のエネルギーが必要ですものね。
私たちの身近な生活の中にそうした差別があり、その差別は人を貶めてしまうことになる。
そうした感情がある限り他者理解は進むことはない。
ある一面を全てとしてみてしまう私たちの視点や感情が、多くの差別的視点へと発展し、大きな課題を作ってしまうことに気づかなければならないのだと思うのです。
障害によってコミュニケーションを交わすことが難しく、想いを伝えることを諦めてしまっている姿をコミュニケーションの拒否と捉えるのか。
疾患から困難になっていて、それでもコミュニケーションを交わそうと頑張っていると捉えるのか。
もしくは、人間的におかしいと捉えるのか。
違いを否定的に捉えるのか。
違いは、その人の視点から見た自分にない新たな考え方と捉えるのか。
差別は、そうした私たち一人ひとりの考え方に大きく影響されていくことになる。
だからこそ、相手を理解するための対話の繰り返しが必要となってくる。
世間の噂や人の伝聞で判断せず、直接会い胸襟を開いて話をするところからでないと、相手を理解することも相手も自分を理解することもない。
そう考えると、それぞれのグループや仲間の枠の中で話をすることも大切ですが、その枠を越えたつながりある対話をすすめていくことがもっと大切なのではないか。
枠を越えることは怖いことかもしれません。
でも、越えなければ視野は広がることもないし、理解の輪は広がっていかない。
もう一度、世界に目を向ける。
国連は、持続可能な開発目標(SDGs)、通称「グローバル・ゴールズ」を策定した。
貧困に終止符を打ち、地球を保護し、すべての人が平和と豊かさを享受できるようにすることを目指す普遍的な行動を呼びかけています。
項目は全部で17項目あります。
よかった国連のHPを覗いてみてください。
この国連のSDGs (持続可能な開発目標)が掲げる“誰も置き去りにしない社会を築くために活動する”という活動には、私たち支援者のポリシーとも言える内容だと思うのです。
少なくとも、私自身は、このポリシーでいきたいと思う。
この内容を読んだ時、自分の行動の後押しを国連がしているような錯覚を覚えたくらい、心が高揚した。
理解し合えない今の世の中。
人なんてそう簡単に分かり合えないと、諦めることは簡単なこと。
自分も語り相手も語る。
相手を信じることを心の中心に置いて、理解し合えないことがあっても、わかると信じて粘り強く語り合う。
それが、私たちの最強の武器なのだろう。
対話という武器を持って。
さあ!己心の壁を越えてみよう。
自分を大きく成長させるために。
そして、ほんとうの理解し合える輪を広げるために。