先日、ちょっとした記事が目にとまりました。
毎日新聞社特別編集委員の岸井成格さんのテレビ出演で、帽子を被って出演したことに批判があるとのこと。
帽子を被っての出演は、抗がん剤の副作用が理由ということですが、そのことを知らないことでの批判があったというもののようです。
元々、髪の毛がふさふさの人が、副作用によって髪の毛が抜けるとなると、カツラ?ウイック?と言うことになるのでしょう。
でも、それほどない人にとってはカツラで逆にふさふさと言う訳にはいかないもので…。
帽子は必須アイテムだなぁ〜と思うのです。
どういう意図があっての批判なのかは、よくわからないので、このことのコメント?批判?はできないので控えます。
ただ、自分の身近にも知らないから起きる批判というか?批評について考えさせられる出来事なので、ちょっとだけここに書いてみようと思う。
「知らなかったんだからしょうがない」そんな言葉聞いたことありませんか。
知らないんだもの確かにしょうがないよね…。
自分も体験したことがあるのですが、この「知らなかったんだからしょうがない」
この言葉を発しながら自分は、最大の言い訳をしているんです。
そして、そう言いながら、とっても恥ずかしい思いをして…。
この時ばかりは、自分の無知と愚かさで、とっても恥ずかしい思いで一杯になった。
しかし、人の心は異なもので、そんな思いをしなかった時の自分は、批評や評論の中身は、「私が基準だ!」とでも言っているような物の言い様。
“世間では、そういうもの(考え)“という一般化した考え。
“普通はさ〜”という極々狭い自分の環境の中での普通を他人への評価へと押しつける。
「みんな人それぞれで、違っていて良い」と個性を主張し言葉ではそれを認めながら、違っていることへの批判は何か違和感がある。
また、自分自身が周りと違うことに不安感や疎外感を感じて、自分の個性や考え方を押し込めて、横並びの人生をあえて選ぶ。
そんな環境の中では、自分の思いは語れないし、語ったところでそれを受け入れられるはずもない。
残念なことにそうした環境は、いつまで経っても、周りの様子を見て、はじめの一歩に躊躇し、気遣いながらやっと踏み出す…。
そして、新たな考えや発想は表現されず、互いの意見の相乗効果から発せられる発見なども出てこないので、新しいものなど生まれるはずもなく…。
それどころか、そこに留まっているだけなので、未来へ進むどころは、世界の時間や時代はどんどん進んでいるのに横並びで留まっているから、時間に置いてけぼりをしている状態なので、後退しているとも判断できる…。
百歩も千歩も譲って、それが、多くの経験や体験を重ねてきた年齢の人であれば様々な経験値からのものだと考えることもできるけれど、若い人でさえ、いや若い人ほどそうした傾向があるのであれば、大きく伸びる時間を頭打ちにしているようで、なんだかかわいそうになる。
さて、横並びの基準ってなんなのだろう。
普通って言っている私たちは何を求めて普通なのだろうか…。
そこの留まっている方が楽だから…?
つづきは、そこから…。