アメリカでは共和党のトランプ氏が暴言王と言われながらも大統領選挙を善戦していますね。
あれだけ暴言を吐いていたら、近いうちに敗退するとか、アメリカ国民はそんなに非常識ではないとかコメンテーターは言われていましたが、思った以上の善戦とのニュース報道に???状態なのかも知れませんね。
でも、起こるべきして起きた結果。
マーチン・ルーサー・キングは「最大の悲劇は、悪人の暴力ではなく善人の沈黙である。
沈黙は、暴力に隠れた同罪者」と語る。
アメリカの教育者デューイは「悪に対する無抵抗は悪を推し進める道」とした。
魯迅は「悪を見逃すのを寛容と思い誤ってはならぬ」と言い。
「いずれ収まる」「誰かがそれを止めてくれる」「選挙はお祭りだから、ただ浮かれているだけ。みんなはそんな悪い人でないから、本当のところ誰もそんな意見には賛同なんかしないよ」ニュースでのインタビューでの言葉。
「みんな?」「誰かが…?」
そこには“私は!”がない。
当事者としての意識が薄いその姿は、善人のように見えるが、「悪を見逃すのを寛容と思い誤ってはならぬ」の魯迅の言葉に事の重大さを感じる…。
さて、なぜに善戦しているのだろうか?など、この事については、いろいろなニュースで意見を各コメンテーターが分析されていますし、それはそれでアメリカの大統領予備選挙ですからちょっと違う世界ですので、ここでは独断論?毒談論?的にトランプをネタに別の視点で考えてみたいと思う。
直感的で極端で極論的な発言。
人が抱く不安や怒りの言葉。
人は、感情的な言葉にビビッと反応しやすくなっている。
自身が感じている「言ってはいけないかな…」という怒りや不満を、誰かが言葉にしてもらうと、なんとなく自分の思いに同調してもらえたように感じて、ついつい「そうだそうだ!」となっていく。
また、自分に自信がない場合「あの有名な人(偉い人)がそう言うのだから間違いないよね」とその言葉になんら疑問を持たずに感心してしまう。
そして、それにつられて私たちの心の中に抑えていたものが噴き出したように言葉となって同調していく。
溜まったストレスの鬱憤を晴らすように怒りや不満をどんどん言葉にしてくれる相手の言葉は、表現は適切ではないですが、なんとなく小気味好く気持ち良い。
そして、そこに参加し一緒に批判や評論を述べていると、ある意味スッキリする。
時に、何者にも恐れず、言いにくい批判を言う姿に、“勇気がある人”と勘違いしてしまう。
そして、それに賛同し、それに照らして一緒に評論したり文句を言う自分は、何か凄く良いことを喋っているようにも感じるので、さらに楽しくなってくる。
第二次世界大戦に突入する前のドイツなど、多くの歴史の中で集団を操る時に使われていた他者批判。
他者から批判されていること巧みに使うと、内部結束が生まれる。
「組織は外からの攻撃には強いが内部からの攻撃は弱い」と言われる考え方を実践的に活用した姿が、あの演説なのかも知れない。と、言うことは、見方を変えると内部分裂が起きたら…ということも予想もできる。
さてさて、評論や批判は無責任さがついてくる。
評価や評論は実践が伴ってはじめて変革の基となるわけだがそれがない。
批判は誰にでもできる。
しかし、批判の言葉の基には自身が実践する裏付けを持っての批判なのか?
誰かの言葉の受け売りであったり、自身の小さく狭い世界の価値観からみた評価なのか?
はたまた自身の不満のはけ口の批判なのか?
「第三者的にみたら〜」とか「普通はさ〜」という言葉は、まさに自分以外にも…という責任を外に向ける意識が見え隠れする。
相手の真実を見ることなく、理解しようともしない自身の感情的価値観による言葉によって…。
批判や評論は、喋っているだけなら気持ちが良い。
酒の肴にもちょうど良く、よく居酒屋で盛り上がっているサラリーマンのお父さんの姿が見られますよね。
今起きている理不尽なこと不条理なことなど、誰もがなんらかの形で感じたり、その現状を知っている人は多い。
しかし、その原因となる部分を深く見ようとする者は少なく、浅い洞察で表面上の部分で判断してしまう。そして、自分でできることを考え行動に移す人は少ない。
課題となった現状を変えることができるのは、なんとか事を変えようと努力する行動の人で、それを実際に実現しようと動く者は、表には見えてこない水面下の調整や死にものぐるいの努力をする行動の人なのです。
自分は安全なところにいて批判や評論するのは、基となる倫理的実践や哲学をもととした考えがあっての事かどうか疑問で有り、いずれにしてもやはり無責任と言わざるおえない。
批判や評論、不満や愚痴、文句は言いだしたら止まらない。
文句や愚痴はお互いに盛り上がるからもっと止まらない。
なぜなら言葉にしたらスッキリするし、はじめは「言ってはいけないと思うんだけど…」と前置きしていた自分が、同調する者がいると、正しいことを言っているのだと勘違いし、世間の代弁者として正論を訴えているように思えてしまう。
愚痴には破壊性が潜むとフロムは表現したが、まさに、その破壊の始まりなのかも知れない。
「良いじゃん、ストレス発散なんだから〜」という人もいます。
それを同調できない。もしくはしたくない聞く者の心はその声は雑音どころか気持ち悪くなるほど嫌悪が伴う。
他者批判の伴う愚痴や文句や批判や的外れの評論など、喋る人間は気持ちが良いのかも知れないが、それを聞かされる周りの者は嫌悪とともに心を破壊されてしまう。
「破壊は一瞬、建設は死闘」と恩師は語るが、まさにその通りなのだと実感する。
そもそも、その愚痴から何か建設的なものが作り上がったことはあったのか…?
トランプ旋風は、人間の悪の一面を表に引きずり出してしまっていないだろうか。
楽して下ってしまった坂を登るのがキツイように、一旦、表に出てしまった憎悪は、次は簡単に引っ込めることは難しい。
先日、トランプの演説会場で平和を訴える青いTシャツをきて黙って立っていた人でさえ、会場から追い出されている映像が流れた…。
行きすぎると人種差別や宗教差別が平気で行われる。
それをしない者は、同じ仲間でも排除してしまう。
排除は恐怖を強くし、恐怖によって支配されてしまう。
恐怖が支配した世界は、他者を否定し信用することもできない。
その火種となるものは、愚痴と文句を餌にした他者批判なのかもしれない…。
ババ抜きという人種差別と宗教差別。
大貧民という経済的貧困に心の貧困。
そんなトランプゲームは、実は身近にあるのかも…。