今回は、國森さんとの生涯学習シンポジウム「私たちの生き方を看取りから考える」で、私がお話しました原稿を載せました。

 

PowerPointを見ながらの原稿なので、ちょっと文章がおかしいかもしれませんが、ご了承くださいね。

最近、みとりの話を耳にします。

 

自分がどういった最期を迎えたいか。

自分は最期に何を伝え残したいのか。

 

やり残しはしないように。…。

やっぱり死にたくない!

 

また、人に迷惑をかけたくない。

人間、誰しもそう思って生きています。

電車で床に直接座り込む、ちょっとすっとこどっこいのお兄ちゃんやお姉ちゃんも「そんなの、誰にも迷惑かけてないじゃん」と…。

やっぱり人に迷惑をかけることは気になるみたい。

 

でも、自分のことを振り返って考えてみると、生まれ来る時、いや、その前から母親にはつわりの苦しさをあたえ、出産の痛みを与え、さらには夜泣きで仕事で疲れている父親を悩ませ、勉強ができず、また喧嘩して帰ってくれば親を心配させる。

そして、そこそこお大きくなったら自分1人で大きくなったような口をきく。

「そんなの勝手でしょ。誰にも迷惑かけてないじゃん」って。

 

でも、親はそれを叱りながらも許し、子どもの未来を案じる。

 

しかし、その親は、子供に迷惑をかけられないと自らを自身が望むような最期の生活を諦めて迷惑のかからないようにと人生を変えていく。

 

相変わらず子どもは、自身の人生に精一杯。

気づくと、自分が親の歳になって両親の想いを知る。

そして、同じように迷惑をかけられないと…。

 

どこかで、最期にわがままを言って欲しかった。

そうでなければ親孝行なんて出来なかった。

そう思う時がやってくる。

 

迷惑って なんなんだろうと今とても強く考えてしまう。

 

人間ですから様々な思いがあるのだと思います。

 

よく、エンディングノートを書こうという言います。

きっと、皆さんの中でエンディングノートを書いている方もいらっしゃるかと思います。

 

さて、そのエンディングノートを作る時、もしくは作ろうとしたときは誰とつくるだろう?

1人で?

金融や法律の専門家?

それも大切なことですが、もう一つ。

ある部分は、親しい家族や友人と一緒に語り合いながら作ることも大切なことと思うのです。

 

私たちは「最期は…」との想いがあります。

しかし、その今の想いは最期まで変わらないものか?といえば、そういうものではなく…。

 

私たちは、様々な社会や人によって影響され続けています。

ある時は、自分の最期はパッ、と花火のような最期を迎えたいということもあるでしょう。

しかし、別れがたい人との出会いで、そうした最期を望まなくなることもあります。

それどころか、最期のことさえも拒否的に考えることもあるでしょう。

 

エンディングに対する言葉は常に変化し揺れ動くもの。

その揺れ動く表に現れた表現とは違い、人には揺るぎない思いがあります。

 

そして、普段の生活では表現されることはないのですが、自身の行動の基となる根っこの想いが…。

 

その根っことなる想いは、他者と語り合うことで、心の奥底に沈ませたある想いを浮上させることができる。

今までの人生で出会った怒りや喜び。

悲しみや慈しみ。

 

生きていくことさえ苦しいマイナスの想いを、時の流れと、支える人によって生きていく力に変えていくこともあるでしょう。

その人生の経験を語り合うことで、自分が頑張って生きてきたことに自信を与え、そして、同じ苦しみを歩む人に生きる力を見せることができることでしょう。

 

私たちは静かに語り合うことでその想いをより強くしていくこととなります。

 

そして、生きること、人生を歩むことなどの「命の力」を他者に伝え、自分の生きてきた人生に自信を持つとともに、人にもその勇気を与えていくこととなる。

私は、そうした姿をたくさん見ることができた。

もちろん、自身の失敗もある。

 

祖父との別れは失敗の典型的なものです。

(これは以前のつぶやきに掲載しましたので省きます)

 

みとりは、ある意味ブームとなっているように感じる時があります。

しかし、みとりはブームでも流行りもでもなく、遊びや商業的なものでは全くない。

人が必ず通る道であり、荘厳なものであり、1人の人のものでありみんなの想いの塊でもある。

決して、私たち専門職は横取りしてはいけないもの。

でもブームの看取りは、家族や本人から簡単に横取りをしてしまう。

私たち専門職は、あくまでも黒子であるべきなのに…。

 

みとり自体それが人に大きく、そして様々に影響を与えるもの。

人生を大きく左右させるもの。

 

その大切な時間はその人たちのために大切にしていきたいですね。

 

どうか皆さん。

今日のこのシンポジウムの時間をきっかけに、生きることに、そして自身が生きてきた想いをそっと想い返す大切な時間にしていっていただけたらと思います。

また、命のバトンを受け継いでいくことの意味を考えてみてはいかがでしょうか…。

 

以上、シンポジウムの内容でした。

 

さて、今日2月9日は、人生とは?生命とは?を文章で、そして漫画で表現したドストエフスキーと手塚治虫の命日。

 

私たちの今日という日は、後悔なく行動しただろうか?

大切な人に、ちゃんと伝えたいことは伝えられただろうか?

今を大切に生きることは、後悔のない最期を迎える最初の一歩。

そして、最期を迎えるときに後悔がないようにするために、今日やり残すことがないように…。

その繰り返しが、大切なのだろう。

 

そう書いている今の自分は、口にした言葉が雑踏にかき消されて伝えきれず、言い尽くせない想いばかり。

後悔ばかりの人生だと気づく…。