私の中学の時の友人は、今パリでフラワーアレンジメントの仕事をしています。
そして、死ぬまでには必ず行きたい国フランス。
ロマン・ロラン ショパン ソフィーマルソー。
あこがれの人が住んだその国に一度は行ってみたい国です。
その反面、人種差別の強い国としてダークな面を持つ国でもありますね。
そのダークな面が人を苦しめた結果のひとつがこのテロとの意見もありますが、私にはその政治的な部分ではなく、人の心に目を向けていたいなと思っていたら、20日の朝日新聞にパリ同時多発テロで妻を亡くしたフランス人ジャーナリストのアントワーヌ・レリスさん(34)のフェイスブックに投稿した実行犯へのメッセージが掲載されていました。
その後、毎日新聞ではその全文が掲載されていたのを読みました。
その全文は次の通り。
「君たちを憎むことはない」
金曜日の夜。君たちは特別な人の命を奪った。私の最愛の人であり、息子の母親だ。だが私は君たちを恨まない。私は君たちが誰であるかを知らないし、知りたくもない。君たちは死した魂だ。君たちは、神の名において無差別な殺りくをした。もしその神が、自分に似せて私たちをつくったとすれば、私の妻の体に撃ち込まれた弾丸の一つ一つが、彼の心の傷になっただろう。
私は君たちに憎しみの贈り物をあげない。君たちはそれを望んだのだろうが、怒りで憎しみに応えるのは、君たちと同じ無知に屈することになる。君たちは私が恐れ、周囲に疑いの目を向けるのを望んでいるのだろう。安全のために自由を犠牲にすることを望んでいるのだろう。それなら、君たちの負けだ。私はこれまでと変わらない。
私は今朝、妻と再会した。幾日も幾夜も待ち続けてやっと会えた。彼女は金曜日の夜、出かけた時のままだった。私が12年以上前、激しい恋に落ちた日と同じように美しかった。もちろん私は悲しみにうちひしがれている。君たちの小さな勝利を認めよう。だが、それも長くは続かない。
妻はこれからも、いつも私のそばにいて、私たちは、君たちが決して近づくことができない自由な魂の天国で一緒になる。私は息子と二人になった。だが私たちは世界の全ての軍隊よりも強い。
君たちにかまっている時間はもうない。昼寝から目覚めたメルビルのところに行かなければならない。まだ1歳と5カ月になったばかりの彼は、いつもと同じようにおやつを食べ、私たちはいつもと同じように遊ぶ。この子の生涯が幸せで自由であることが、君たちを辱めるだろう。君たちには彼の恨みですら、あげることはない。
その後、テレビのインタビューで、キャスターから「本当に恨んでいない?」の質問に「心の奥底に押し込めています」と。
誰かと戦っているのではなく、自分自身と心の中で戦っていることに心が震えました。
そして、そのテロのあったパリでは、ある若い男性は目隠しをし、足下に「私はイスラム教徒。人は私をテロリストと呼ぶ。私はあなたを信じます。あなたは私を信じられますか。私にハグできますか。」そんなプラカードを置いて立っている。
すると、パリ市民は交代で彼にハグをしていく姿があった。
あるニュースで、「本当にこの(パリでの)残忍なテロで、許しまじきテロを行った。これは、とんでもないことは当然ですけれど、一方で(略)「誤爆の犠牲になった人たちから見れば、有志連合による空爆もテロに当たる」のでは?のコメントに異論が噴出したそうです。
そうだな…と思う私にとって、どうして異論になってしまうのか…?
言いたいことはわかるのですが、異論はどういうもので、どう考えでのことなんだろう。
異論があることは大切。
しかし、その異論に対して対話をもって理解をしようとするのか。
対話の拒否によって、対立の関係から力でねじ伏せ意見を通すのか。
先のイスラム教徒の彼の行動にてらせば、心に訴える対話の意味は大きい。
人を疑っているだけでは、決して前進はしない。
相手を信じることの大切さ。
信じることによる人の強さをこのテロ事件で示しているように思います。
自分は自身を苦しめた相手を信じられるのだろうか。
自ら先に相手を信じようとするのだろうか。
こだわりをなくすのではなく、こだわり以上の信念が強く持たなければ、難しいことなのだろう。
人を信用することは、一人ひとりの個々の人間に向き合うことしかそれはないのであろう。
向き合い本音で語り合うこと。
そう考えると、本音で語り合うことの拒否は、人を信用することを自ら否定することになるのでしょう。
今回のパリでの出来事は人間を試す出来事なのかもしれない。
口で言う平和ではなく、行動する平和を試されているのだと…。
力ではなく、対話と人間力による行動の必要さを…。