後藤健二さんはとても残念で悔しい結果となってしまいました。
こうした結果に直面すると、だけが悪いのか?と悪い人を探し、その対象を徹底的に批判してしまう。
人の命を奪うこと自体最悪の事態で言語道断であることは変わりない。
以前も書きましたが、行ってはいけないと警告されているのに行くこと自体が問題。
自己責任だ!との声に対する感情。
確かに、外務省は後藤さんに3回直接警告をしたとのことですし、それをある議員が今、公言していることに対する感情。
しかし、ジャーナリストとして行かなければ伝えられないこの状況を誰が正確に事実を伝えるのかと言えば、彼らの存在が社会を動かす最も危険なそして重要な仕事をされているのですから、簡単に自己責任なんて言葉で片付けられないという想い。
そして、後藤さんが、この事件に巻き込まれてしまってから後藤さんがやってきたことがクローズアップされ、どんなにすばらしいことをしていても悲惨な状況にならなければ、その人が地道に行ってきたことを評価し伝えてくれないのか…。
後藤さんは、ヨルダンの人々の中東の惨劇の陰に苦しむ庶民の姿を映像だけでなく活字で伝え続ける。しかもその本は少し大きな字でルビが打ってあり、誰にでも(子どもにも)わかるように伝えるべきことを伝え続ける。
それだけでなく自身の名前を伏せて支援活動をしていたそうです。
こんな事件が起きなければ知らなかった自分にも…。
この出来事に対して後藤さんの思いを考えると様々に対しての怒りがこみ上げてくる。
しかし、後藤さんは以前のツイッターでには「目を閉じて、じっと我慢。怒ったら、怒鳴ったら、終わり。それは祈りに近い。憎むは人の業にあらず、裁きは神の領域。そう教えてくれたのはアラブの兄弟たちだった」と。
この他にも後藤さんのつぶやきに多くに人が注目している。
この言葉にハッとさせられる。
怒ったり怒鳴ったら終わり…。
以前のブログで社長さんの言葉と通じる…。
今日、ニュースでヨルダンの人々が大使館の前に集まり「We are Kenzi Goto」と連呼し、「私たちは後藤健二と共にそして日本の国民と共にいる」とメッセージを伝えていた。
そして、外務副大臣は涙ながらにヨルダン国民に対してのメッセージを印刷し配っていた。
後藤さんがヨルダンに蒔き続けてきた種が芽を出している瞬間。
「見るもよし、見ざるもよし、去れども我咲くなり」とは、恩師の師のことば。
ほんとうに賛嘆されるべきは、目の前のクライアントであり、地道に生きる人々からであることを、後藤さんの行動と今のヨルダンの人々の声から、強く心に留め、私は今、自身を振り返えっているのです。