京都研修から帰ってきて、暑い地元で自分の仕事をこなしています。
残るは、明日からの土日の岐阜研修で、この夏の研修大遠征が終わるので、
今度は地元で夏の暑さを満喫しながらのお仕事にもどれます。
ちょっとひと息、ひと安心。
さて、研修とケアの実務の仕事を比べると、どっちの仕事をしたいのか?って時々質問される事がある。
答えは簡単。
相談・ケアの実務。
実践なき知識は空想でしかなく、空想の矛盾には耐えられないのです。
ではなぜ、研修講師をしているのか?
それは、より多くのケアの専門職のみなさんに、クライアント主義を貫いて欲しいから。
生きにくくなっているクライアントに生きる力や困難に立ち向かって生きる勇気を与える事ができる専門職を作りたいから。
そしてなにより、こうした困難な状態のクライアントと共に悩み、共に歩む事ができる。
この困難な課題から逃げずに側面から支援する事ができる対人援助の専門職になって欲しいから…。
しかし…しかし…。
私たちは様々な困難に悩み苦しくなることがたくさんある。
それはクライアントが抱える課題や自分自身がそうした課題と向き合ったときに感じる自己覚知による苦しみ。
そこから逃げない事が支援者としての訓練なのだと思います。
もちろん、こうした苦しみに耐えるのは容易ではないのはよくわかってのこと。
そんな苦しみにはいろいろなものがあります。
その中のひとつに、私たちが行うべきソーシャル・ジャスティスのことなど大きな悩みになりますね。
何をもってジャスティス(正義)なのか?
たとえば、「オメラスから歩み去る人々」では、村人の平和を維持することが正義なのか。
それとも、地下室に幽閉されている精薄児を助けることが正義なのか?
このストーリーを知らない人にとっては何を言っているのかわからない話ですね。
ストーリーは、ネットで調べてもらえればわかりますが、簡単に言えば、オメラスと呼ばれる美しい都があり、オメラスは幸福と祝祭の街で、ある種の理想郷であるということ。
そこには君主制も奴隷制もなく、僧侶も軍人もいない。人々は精神的にも物質的にも豊かな暮らしを享受している。
誰もが「心のやましさ」のない勝利感を胸に満たす。子供達はみな人々の慈しみを受けて育ち、大人になって行く。
そのオメラスの美しいある公共建造物の地下室に、一つの部屋があり、部屋には錠のおりた扉が一つ、窓はない。
わずかな光が、壁のすきまから埃っぽくさしこんでいる程度しかない。
その部屋の中に汚物まみれの子どもが坐っていて、男の子なのか女の子なのかも見分けがつかない。年は6歳ぐらいに見えるが、実際にはもうすぐ10歳になる精薄児。
その子はもとからずっとこの部屋に住んでいたわけではなく、日光と母親の声を思いだすことができるので、ときどき「おとなしくするから、出してちょうだい。おとなしくするから!」と声を上げていたが、今ではだんだんしゃべることができなくなり、痩せ細り、腹だけがふくらんでいる。
オメラスの人々は決してこの子を助けようとしない。
なぜなら、争いがなく幸せであること。この町が美しいことなどすべてが、この子が幽閉されているからであると言うことはこの町の住民は知っているから…。
というストーリー。
要は、1人の犠牲によって成り立つ幸せは本当に幸せなのか?
それを容認することは悪なのか?
大勢の幸せのための1人の不幸はしょうがないことなのか?
以前ブログにも書きましたが、チョコレートドーナツでもそうです。
当時の生活局のソーシャルワーカーも裁判官もある意味、“その子どものために”というソーシャル・ジャスティスの行使だったのかもしれない。
でも、だからしょうがない…。
として良いのか?
たとえば先日、広島に原爆を投下したエノラ・ゲイの12人の乗務員で最後の生存者だった飛行士のセオドア・バンカークさんが亡くなりましたが、彼は原爆投下が戦争終結につながり、間違っていたとは思わない」と朝日新聞の取材に応えていましたが、ここでも何が正義なのか…。
ただ、彼は、AP通信には原爆は長い目でみて多くの命を救ったとした上で、“戦争や原爆では、何も決着しない”“個人的には、世界に原爆は存在すべきではないと思う”とも語っていたそうなので、戦争と原爆の絶対悪を主張されているように、私たちが生業にしている対人援助の場面では絶対悪と正義はどういったものなのか?
とてもわかりにくい…。
私たちはそうした何が正義で何が悪なのか。そもそも正義はあるのか?
その意味を私たちは常々考え続けなければならない仕事。
私たちが身につける知識や技術は何のためにあるのか?
この続きは次のブログに書くとしましょう。
次のブログまで、ちょっと課題を用意しました…。
「善いことをしないことと悪いことをすることは同じなのか?」
皆さんはどう考えますか?