人にはこだわりがあります。 そして、そのこだわりから許せないことって誰にでもあるかと思います。 それを許すということは、相当の勇気と決断が必要になってくるのだろう。 なにより、心が強くあるからこそできることなのだと思う。
寛容は、人として成長していく中で、強くなりながら得られていくものなのかもしれない。 成長といっても、ただ時が流れていく中での生物的成長ではなく、人としての価値創造の成長を指すことなんだと思う。 そこには、悩み、労苦し、自身の人生に向き合い目標とする自身を目指して努力することにあるのかもしれない。 そしてさらに大切なのは、その悩み労苦する自身を支え認めてくれる存在があるということ。 ときどき、「そんな人はいない」と言われることがある。 事実いらっしゃらないのでしょう。 でも、待っていては、その人は現れてこない。 求めるからこそ、姿を現すものなのだと思うのです。
以前、恩師から「どんなに私が君の師匠だよと言っても、君がそう思わなければ師匠にはなれない。たとえ、私が師匠になるほどの資格などなくても、君が師匠だと心定めれば私は君の師匠になるんだよ」と話されました。 師匠ほどではなくとも、自分自身が心定め、人を求めることがその人を見つけたことになる。 なので、「いない」は、もしかすると真剣に探し求めていないのかもしれない。 まずは、心定めて探すことなのかも…。
成長には、もうひとつ自身の心に持つべきものがあると思う。 他者を慈しむ心。 自分自身のことばかり考える学びや行動は、一時は満足は得られますが、その満足は欲によるものなので際限がなく、自己中心のものとなっていく。 そうした成長は、自己満足の域を出られず、偏重した見方になり、自身の考えに合わないと否定してしまう不寛容の心に基づいた成長でしかなく、いつも餓えと他者否定の感情が心を支配してしまうように思う。 そうならないようにするために、利他の意識が重要になってくる。 目標と葛藤について語るマクゴニガル(健康心理学者)女史は「自分が大変な時にこそ、誰かの助けになることをすれば、自ずと困難を乗り越える力を手にすることができる」と語る。 これと同じことを語るのは、アルフレッド・アドラー(心理学者)
加藤諦三氏の著書「うつ病は重症でも2週間で治る、もし…」において、この言葉は、アドラーが語った言葉として紹介しています。 そして、この後に続く言葉として、「毎朝あなたがまず最初にすることが、どうしたら人を本当に喜ばせてあげることができるかと考えることであり、そしてそれに固執すれば」と綴っていることを紹介されている。 もちろん、加藤諦三氏は、鬱病になった人から見たら腹の立つ言葉ではないかとも紹介していますが、その真意はどうかはこの本を読んでいただくことで理解を深めていただくとして、両氏は、自分以外の誰かのためにと心砕くことが、自身を元気にし、強くしていくのだと語っている。
寛容の人の振る舞いは、こうした誰かのためにと心砕く姿。 また、マクゴニガル女史が語る「自分が大変な時にこそ、誰かの助けになることをすれば、自ずと困難を乗り越える力を手にすることができる」ことなのだろう。
自分のことばかりに注視していては、心の闇から抜け出ることは困難。 数年前の過去の自分に教えてあげたい言葉だった。 そんな思いを込めて、書き留めておきたい言葉でした。