自分を守るために自分以外の人を守る。
ニュースを見れば、毎回ウィルスの話。
最初は興味の範囲で見ていたニュースは、その後、うんざりしてしまうほど報道が続き、気持ちが滅入ってしまうような情報ばかりとなってしまいました。
報道も様々、深刻的なウィルスとの報道から、視聴者を安心させるためなのかそれは煽りすぎとの報道まで。
しかし、この2週間で状況は確実に深刻的な状況へとすすんでいるように思う。
2月中頃から続いている自粛。
多くの商業は、ウィルス騒動からの自粛で大赤字か、もしくは先行きの見えない状況に事業の継続ができるのかどうか…不安だけが雪だるまのように大きくなっていく。
私たちのような業種でも、同県で、この圏域で同業種の感染者が1人でも出たら一時的な事業停止が起きるだろう。
そうなったら、事業所の収入が減って事業所の継続ができるのか心配になる。
さらに、自身の事業所で感染者が出たら、その時点で事業所は廃業となってしまう可能性も大きい。
小規模の1法人1施設のほとんどの事業所は、そのことで頭がいっぱいになっていることだろう。
私自身の気持ちも同様。
ウィルスのように、見えないものとの戦いで、どこにその敵がいるのかもわからない。
どこまで守ればいいのか。
手洗いに消毒。
マスクは意味がある?ない?正確な情報はどちらなのか。
人のいないところが安全。
でも、人がいないところって今の日本のどこにあるの?
公園など外で風通しの良いところは安全?
でも、ベンチや手すりにはウィルスが付着しているからそこから接触感染してしまうの?
食堂などのテーブルにもウィルスがいる?
ならば、ドライブスルーで買えば大丈夫かといえば、それを手渡す店員がもしかすると…。
気になりだしたらきりがない。
市中感染が出始めたと言われると、自分以外のすべての人が怪しい人になってしまう。
咳をしたり、くしゃみをしたりしたら一斉に危険人物に見られてしまう。
なので、「私は喘息です」「花粉症です」と缶バッチでアプローチしなければならない。
全てが敵で、自分を守るために必死なっていく。
こうした緊張感もそうは続かない。
人間は拘束されることを嫌い自由を大切にし求めるものなので、自粛の限界もわからないことではない。
そろそろ2ヶ月も過ぎ始めたコロナウィルス騒動は、コロナ疲れとも言えるほど心が疲れ果ててしまっているのも事実。
とうとう我慢の限界なのか、先週末から街には人が増えはじめ、この3連休は道路は渋滞が起き始めていた。
大きなイベントも強行開催されたとのこと。
それらに怒る人、もうそろそろ大丈夫じゃないかなと考える人。
この結果は、この週末から来週にかけてその答えは出てくるだろう…。
そして、その結果でまたどうなるのか…。
そんな中でも、がんばって多くの人は、感染予防の手洗い消毒に、足りない中でも手作りマスクを装着し、鉄壁の守りをしているかと思う。
家に閉じこもり、人との接触もできる限り避けたいと考える。
でも、ちょっと気づくことがある。
どんなに頑張っても、生活すると言うことは人との交流があり、人との交流がない生活は、そもそもありえない状況になる。
それは、映画「I Am Legend」でも、人のいない世界の精神的孤独を上手に表現されているので、見たことのある人はわかる話だと思う。
話を戻そう。
たとえば、ひとりで鉄壁な守りをしていたとしても、同居する家族や親しい友人、身近な地域の人々が感染してしまったら、その鉄壁な守りも限界がある。
感染を避けるために、その交流さえも閉ざさなければならないのだろうか…。
ウィルスが流行出したとき、スタッフからこんな話が出た。
「自分がなることはしょうがない。自分が苦しめばすむこと。でも、人には罹したくない。まして、利用者やその家族には絶対に。」と。
私も同感だった。
高齢者や障がい者支援をする立場であればきっとみんなそうだろう。
自分が罹らないようにするのは、人に罹したくないから。
今、必死に罹らないようにしているのは、誰のためなのだろう。
マスクや消毒の買い占め。
対して、たいしたことないウィルスと勝手に判断して感染リスクを冒している状況。
ウィルスの問題からも見える利己主義。
このウィルスと戦う上で、忘れてはならないこと。
それは自分のためではなく自分以外の人ことを考えること。
自分を守るためには、自分だけを守っていても解決はしない。
自分を守るためには、周りの人々を守るところから自身を守ることに繋がっていく。
環境を整えることが、自分の暮らしを守ることになるのです。
自分と共に他者を守ること。
それは、社会全体を変えていく地道な活動に繋がっていく…。
地域で支えるという発想も、“自分は大丈夫だ”という視点では先には進めない。
自分以外の人を想うこと。
私は私、あなたはあなた。
支える人と支えられる人。
そうした区分けをしている限り問題は解決しない。
共に生きること。
それは、自分以外の人のことを考えこと。
今、しなければならないことはそういうことなのではないだろうか…。