殺伐とした世の中
閉じこもりのことや電車の逆走。
アクセルとブレーキの踏み間違い事故。
はたまた、ラウンドクルーザー内の出来事でごめんなさい会見。
さまざまな事故や出来事が私たちの目の前に、必要ないことさえも目に入ってくる。
そして、そうした出来事にイラついたり、怒ったり、悲しんだり…。
自分の身の回りで起こっていることではなく、遠く離れた出来事に怒りを感じたりイラついたり。
感受性が強いということなのか…。
しかし、心が殺伐としていく情報の大洪水。
今の日本は不寛容の時代ともいわれる。
さまざまな出来事が許せない。
そして、自分の中の正義感で他者を批判する。
SNSで一番反論できないのは、正論なのだそうだ。
それが、普遍的な正しさかどうかは別として、確かに正しいが故に反論はできない。
人間はロボットではない。
全てが正しい行動をとるとは限らない。
だから予測不能で、自分が思うような動きや流れにならない。
なので、不可解な行動に見えてしまう。
でも、相手の話を聴いてみる。
その声から想いを想像してみる。
すると、わからなかった相手の想いや行動が、なぜか心の中から響いて感じとれ、理解できるようになる。
その時の感動は、言葉に表現できないほど嬉しいこと。
ことに、相手の不可解な行動の根底に、その人なりの自分(私)に対しての優しさや想いだったことに気づけたとき、今までの苛々や不満を抱いていた自分が恥ずかしくなると同時に、相手に対して、今まで以上に大切な思いが強くなる。
認知症の人の不可解な行動も、私たちにとって不可解であって、本人にとっては試行錯誤し、今その瞬間を切り取って適切だと行動することが多い。
不可解な行動は、私たちにとって不可解であって、本人の視点は至っては、この現状に合わせた適応行動なのかもしれない。
そして、私たちに対する思いであったり、「迷惑をかけられない」という優しさだったり…。
そこに気づけたとき、今まで以上の思いが蘇ってくると思うのです。
私たちの見る視点に限界があって、見えていないことがたくさんある。
自分を振り返ると、それを人のせいにしてしまっていることもたくさんある。
けっこう、自分の見える範囲でしか考えていない。
それで正否を決めると相手を過剰に悪く見てしまうことになる。
最近、私自身が気をつけたいこととして、気づいたことでした。