ニュースでは、子どもの虐待が連日報道されている。
心が痛くなるので、あまり見たくないニュース…。
テレビでは、コメンテーターと呼ばれる人が、「なぜ、大人は子どもを助けない!児童相談所は何をしてるんだ!」と怒りあらわにするひと。
また、冷静に「日本の家社会や家族社会が問題だ」と語るひと。
今回の虐待は、児童相談所の職員が、親の圧力に屈したとコメントするひと。
『助けて』と子どもが助けを求めていたのに、なぜ助けなかったのだろう。
「助けて」と助けを求めているのに!というコメント。
でも、助けてと言えない子もいる。
親からの愛情をもらうために、理不尽な親の権威に言いなりになり、従う。
または、それが親の愛情だと思って、虐待する親から離れずに一生懸命に愛情をもらうために言いなりになっている子どももいる。
その声は、いろいろな言葉でかき消されてしまう。
実際に、声なき訴えも含めれば、報道される以上に虐待は多く、そして悲惨なことが起きている。
そして、虐待が終わってもその傷は、その子の人生観や価値観にまで影響を与え続ける。
その子自身が生きにくさを感じ、周りからは変わった子として見られることも多い。
斎藤緑雨は「刀を鳥に加えて、鳥の血に悲しめども、魚に加えて魚の血に悲しまず、声あるものは幸福也」と綴る。
魚よりも痛いと鳴ける鳥の方が可哀想にと思ってもらえる。
けっして「助けて」と声を上げた子は幸せだと言っているのではない。
声を上げることができない人に、目を向けなければならない。
または、気づいてあげられていないことが問題だと思うのです。
もちろん、声を上げられない人を探すのはとっても難しいことです。
しかし、上げられた声から上げていない人へ、想いを寄せることはできるはず。
そして、もう一つ。
評論はどこまでいっても評論でしかないということ。
「あれは良くない」「それって変だ」と批判するだけでなく「本来ならこうすべきではないか」とか「もっと、こうすればいいのに」と、机の上で考える言葉や頭だけで行動することの難しさを理解しない言葉は、たしかに正論だけれども空論でもある。
そうした輩は、肝心な時に役に立たず、逃げてしまう。
それでは、誰も助けられない。
子どもの虐待については、これだけ報道をする。
テレビの中では、「子どもの『助けて』の声を無視するのか」と涙ながらに訴える。
でも、今回のことを通じて、心がざわつくことがあるのです。
ここまで子どもの問題はとりあげるのに、なぜ、高齢者の、また認知症者の訴える姿は無視するのだろう。
「家にいたいの」「バカにしないでほしい」「帰りたいの」「お願いだから…」そう訴える。
それが、うまく表現ができないので、暴言であったり拒否として表現したり、自身に苦しみを向けて黙ってしまう。
また、迷惑をかけてはいけないと、自分の思う生き方を曲げて「私は大丈夫」と口をつぐむ…。
先の虐待の話同様、認知症の人の声が上がっているのに、なぜ、これほどまでに取り上げないのだろう。
今、認知症の人たちがどんどん施設に入っていっている。
虚弱高齢者だからなのか。
認知症だからなのか。
人に迷惑をかけるから?
独居で最期を迎えるのは可哀想だから?
それって、誰の判断なのだろう…。
認知症であると本人の意思が曖昧だから?意思決定能力がないから?
だから、代わりに?
であるのであれば、認知症のグループホームの入居者全員が、認知症であるのだからなんらかの形で、全て後見人がついて当然なのではないだろうか。
意思決定能力がない…。
なのに後見人がいない…。
子どもの問題はこれほどまでに大きくなるのに…。
声を上げる認知症の人の場合は、その声さえも無視されているようで、心が折れそうになるほどざわついてしまう。
在宅支援の3本柱のデイサービス・訪問介護・ショートステイは、今どうなっているのか。
利用者がいなくて、潰れている現状にある。
高齢化が進むこの時代に、在宅サービスは利用者がいなくて潰れていく…。
この状況を合わせて考えると、何かが見えてくる。
何かが…。
貧困、障がい、児童…さまざまな社会的弱者と呼ばる人々…。
私の仲間は、その人のためにと言葉通り闘っている。
私は、ちゃんと人を支援しているのだろうか。
その前に、誰を支援し何と闘っているのだろう。
いや、闘うことさえもしていないのではないか…。
ざわつく心は、不平評論ばかりで、きっと、何もしないで闘っていない自分自身への不満なのかもしれない。
ふっと気づくと、私は、全体のことばかり見過ぎていた。
地域という単位でどうにかしようと考えていた。
全ては、ひとりの人をどうするのかで決まる。
地域も組織も、一人ひとりの人によって構成されている。
ひとりを支える繰り返しの作業は、地味で、地域福祉へとは繋がっていかないように見える。
しかし、それがとっても大切なこと。
ひとりの人のために。
戦う存在でありたいと思う。