どうせ、頑張ってもここまで…。
そう思う心がある人は、努力を一度はしてきた人。
以前の私は、そうではなかった。
勉強ができないのは当たり前。
そう思い努力などしてこなかった。
私の子どもの頃は、スポーツといえば野球だった。
なのに、小学校高学年まで、野球のルールどころか、ボールの投げ方さえ知らない運動音痴。
もちろん、親とキャッチボールなどしたことがない。
勉強もキャッチボールも教わることもなく、子どもの頃の引っ越しは6回。
小学校6年まで親しい友達もできることなく…。
親からは、期待されない、朝から晩まで馬鹿呼ばわりの子どもの頃。
いつもと違うことをすると、大概は怒られる。
レスポンデント条件付けされた子供の頃。
せめて、オペラントだったら、がんばる条件付けもできただろうに…。
初めて何かをしても最初から上手になんかできるはずない。
しかし、叱られてばかりの人生は、初めて何かをやって失敗することも、当たり前ではなく、何もできない子となってしまう。
だから、何もしない方が良い。
動かない方が良い。
誰かと交友せず、ひとりでいた方が安心だった。
だから、自分の人生なんて希望もない?
いや、希望ということさえ考えない。
変化を起こさず、只々生きて、その日が怒られず、嫌なことが起きなければ良い1日と思う毎日の日々だった。
何か変わったことが起きれば、ほぼ全ては嫌なこと。
だから変化は嫌い。
努力して褒められることのない人生は、努力さえ変化として捉え、努力なんてすることもなければ、努力をすることは良くないことが起きるなどと考えてしまう。
「人間不信は、人に向ければ攻撃になり、自分に向けると無気力になる(要旨)」そう加藤諦三氏が語っていた。
きっと、無意識に誰も信頼できなかった自分がそこにいたのかもしれない。
そんな自分が人の支援をしようとなったのだから、今から見たら大きな変化。
人は、変わることができる。
私がそう思えるようになったのは、良き人に出会えたことから始まる。
人は、必ず変われる。
そして、出会った人によってどうにでも変わることができる。
凍りついた心を溶かすように、善き人の出会いは眠っていた心を目覚めさせるのだと思うのです。
善き人に出会えれば、その人生の歯車は、どんなに苦難の道でも、前進していく力になる。
勇気が出るのです。
「お世話になったこの人のために」「自分を支えてくださったこの人のために」と。
自分のための努力は続かないが、人のためであればがんばれる。
まして、自分を支えてくれた人のためなら。
反面、悪しき人に出会えば、自身の価値観がそれに染まる。
心は低きに流れはじめる。
己心のためだけに走る。
そんな心になってしまうと、同じような人が集まってくる。
そうなれば、善き人も離れていってしまう。
強く心を保たなければ、悪くなるということではない。
いつも悩み考え続けているからこそ。
自身の低きに流れやすい心の流れを見つめ悩むからこそ。
善き人に出会えるのだと思うのです。
そして、朗らかな人には、やはり人が集まる。
人は志次第で、変わっていくというが、その志を創っていくのが、出会いなのだろう。
善き人に出会えるか。
善き書物やエピソードに出会えるか。
悪しき人に出会ってしまい悪知識に染まってしまうか。
私は、善き人に出会えたのだろう。
心からそう思える。
ほんとうに感謝だな…と思うのです。
祖父が、生前語っていたことがある。
自分には、お金や財産の福運はなかった。
でも、善い人にたくさん出会えた。
自分は、人の福運があったんだと思うと。
人の福運…。
きっと、私は祖父から人の福運を少し分けてもらえているのだと思う。
それを曇らせないように、いっぱい悩み続けよう。
朗らかでいよう。
太陽のように、暖かくまわりを温め照らせる自分になろう。(なりたい…かな)
簡単なようで、難しいことなのだとこの歳になって重く知る。
そして、この歳になって、あらためて自分の人生から感じたことでした。