私たちの目の前にはいつも…。

染み込んで、とり除くことができないほどの爪の隙間の土
仕事を重ね続けたことによる曲がった指先
今までの人生を刻み込むような深く刻まれた顔や手のシワ

認知機能の障がいが顕著であっても、相手を気遣う言葉。
愚痴とも後悔とも言えない取り戻すことのできない人生を振り返りながらの最期の時間に折り合いをつけるように発する言葉。

私たちは、その姿からその人の生きてきた労苦を知り、その言葉からその人が生きてきた想いを胸に刻む。

そして私たちは、その人の人生の一部分を形とって、ケアへとつないでいく。
その人を大切に思うとは、そうした想いを知り、受け止めながら受容し、支えていこうとすることなのだと思う。

パーソンセンタード・ケア
その人らしさを大切にする。

言葉では、ひと言で言えてしまう言葉。
でも、ほんとうにそれができるのだろうか。

実際にそれを実践していくことは、言うほど簡単ではない。
なぜなら、自分とは違う別の人格や価値観を持った人を受容するところから始まるのわけですから、援助者の心が柔軟でなければ容易ではないし、自分自身も苦しくなる。

私たちは実践者である。
実践するということは、頭で理解するだけではなく、知識に基づき行動する存在であり、それを求められる。

その中で、私たち支援者は身体を使うだけでなく、心もフル稼働して支援にあたる。
実践する支援は、頭の中でイメージした通りにはまずならない。
どんなに理論的な裏付けや展開を示しても、相手は人間である。

多種多様に変化し、時とともに変わっていく。

それに追従するように、身体的な状況はもとより、物理的環境や人的環境、それら様々に絡み合った情緒的な面などに即応するように支援にあたる。
それができるのも、私たちが情緒的な人間だからこそできることなのだろう。
AIなどのテクノロジーがどんなに進化してもこの部分は、きっと人間の仕事であろう。

 

学術研究の分野と援助実践の分野
この仕事も両輪で動いていることがわかる。
援助実践だけをもって援助にあたることの空回りも体験した。
その中で、新たな知識をもって援助実践をすることの大切さを身をもって知った。
しかし、その土台となる部分がないとほんとうの援助にはつながっていかない。
身につけた知識や実践経験を生かすための土台となるその部分がないと、自身の繰り返される仕事に疑問が出てくるであろう。

目的も見えなくなってくる。
惰性にも、諦めにもつながっていく…。

繰り返される毎日の中で、実感として見え始めてきたものがある。
それは、ひと言で言ってしまえば、本来の福祉の思想となってしまうが、そんな簡潔な言葉ではなく、実感として感じるものがある。

それは何か。
真剣にこの仕事をする人々の中にはきっと、この言葉にならない思いがあると思う。

私自身、これを言葉にしなければと思う歳になってきた。
そのためにもう少し思索が必要なのだろう…。

晩秋の夜長に、思い巡らした談でした。