昨日は、地元の花火大会。

人混みは嫌なので、いつものジムでひと汗かきに…。
このジムの駐車場は花火を見るには意外に良いところ。
駐車場からパチリ。
あとはひと走りとマッサージ…。

さて、前回のブログに記したエノラ・ゲイの飛行士セオドア・バンカークのこと。
そして私たちが福祉の専門職として根底に流れるソーシャルジャスティスのこと。

その続きの課題「善いことをしないことと悪いことをすることは同じなのか?」。

今日、広島の原爆投下から69年目を迎えてもう少し難しく考えてみたいと思う。

私たちが身につける知識・技術。

私たち専門職は対人援助を行う上で、知識・技術・価値という3つの要素が三位一体となって専門としての働きかけをしています。
この知識や技術を身につける前に私たちはこの価値を身につけることが重要なのだと言われています。
さて、この価値がないとどうなってしまうのか。
どんなに知識や技術を身につけても価値観やその基となる倫理が壊れてしまうと。その技術や知識は人を傷つけるものとなってしまう。
「その人のため」といっても本当にその人のためなのか・・・。
私の親切心という“想いの押しつけ”でその技術を使っていないだろうか。

68年前、科学者たちが関わった原爆の製造。当時のマンハッタン計画の歯車にひとつとして位置していた。アインシュタインは開発の研究の資金援助を申し立てるが、抑止力としての研究であって絶対に使用しないようにとルーズベルト大統領に伝えるが、結局使ってしまう。後にアインシュタインはその書簡を送ったことに後悔したと言われています。
また、その計画から離脱したロートブラット氏は、他の同僚が計画に参加し続けた最大の理由を「純粋で単純な科学的好奇心」と、人生の師匠に語っていた。
大きな、また興味深いマンハッタン計画の局面において、当事者は職業的使命を遂行。その結果、トルーマン大統領の指示のもと原爆投下で広島・長崎の20万を超える人々が殺されたのです。

ここにも私たちが外せない価値(倫理)を忘れた姿なのかもしれない。
後に、“ラッセル・アインシュタイン宣言”において「あなたがたの人間性を心にとどめ、そしてその他のことを忘れよ」と訴えている。

そこには軍人である前に、科学者である前に、政治家である前に、“人間”であることを訴えているのだという。

私たちも、ソーシャルワーカーである前に、ケアワーカーである前に、ケアマネジャーである前に、医師である前に。
そして支援者として、というスタンスである前に人間であると言うことを忘れてはいけないのだと思うのです。

こうした考えは、何か矛盾し支援者として回り道のようにみえるが、私たちはクライアントの自己実現のために知識・技術を使うという事まではわかっていても、人間であると言うことの根底の思考がなければ、人を支援するという原点に戻れないような気がするのです。

人は自身の幸せのための欲求は限りがない。
そして、その欲求を満たすための行動にもきりがない。

しかし、本当の幸せはそんなに遠くにあるものではなく、以外に目の前にあるのかもしれない(メーテルリンクの青い鳥もそうですよね…)
そしてそれは、他者との交流の中にあるのだと思うのです。

たとえば、七夕の短冊にある願いをみてもわかることがあるのです。

さて、どんな願いがあるのだろう…。
正義と願いと課題の答え…。

この続きは、また明日…。