3.11がきました。
今年は6年目。
6年目と言うことは、亡くなられた方は7回忌。
一つの節目の年となる年なのです。
私の友人もその節目を迎えたのでした…。
ただ、節目はその人それぞれ違うわけで…。
その話は、また後にすることとして…。
あのとき皆さんはどこで何をされていましたか?
私は、ちょうど会議中。
地震と言えば東海地震。
地震を体験したとき、勘違いして東海地震と思っていました。
そして、報道されるニュースから東北であったこと。
そしてその後、あの津波をテレビで見ることになるのですが、当時は何が起きているのか。
そして、その後体験した阪神大震災とは違った津波の脅威と原発の事故による目に見えない放射能というなんだかわからない脅威。
未だに、原発の町は立ち入り禁止の区域は残り、チェルノブイリのように人が生活していた町並みはあるのに人が息づく暮らしがない街となっていて、昔日本人が体験した水俣病やイタイイタイ病のような環境汚染と風評の悲しい体験は、今福島の農作物や海産物へとステージが移っていった感じがする。
相変わらず、歴史から学ぶことなく繰り返されている姿になんともいえない思いになる。
そして、さていざ東北へと思いを巡らせても自分には何ができるのか。
「何かできることは?」との思いと同時に、何か役に立つ特殊な技術も能力もない自分の存在に、“何もできないじゃん!”と即座に返ってくる自分の思いに、なんともいえない無力感を感じてしまう。
よく、忘れないことと、言われます。
「忘れられるか!」と思う。
そうじゃなくて…と思う。
そうじゃなくて…。
そんな想いの中にいる。
反面、復興に頑張る地元の人々の姿は私たちに力を与えてくれる。
交流をさせていただいている水産関係者の方がいます。
彼らの元気はどこから来るのだろう。
明るく、前向きに、そして何かを確信するかのように足が地に着いているように見える。
安定と不安定。
私たちは、いろんなことがあって不安定な心を持つ。
東北の水産業者の方もあの大きな出来事で、積み上げられた人生もこれからの人生がどうなるのかもわからなくなってしまったに違いない。
しかし、あの大きな出来事をを体験し、立ち上がってくる底力はいったいどこからくるのだろう。
以前、その方に尋ねてみました。
すると…。
次回につづく…。