自分なりの形態を思考錯誤しながら作ってきたこの法人。
しかし、どんなに想いがあっても自分のやりたいことが、世間の必要とされる全てではなく、理想と現実にはギャップがあった。
理想にたどり着くために様々な経験や新たな学びが必要だった。
現時点、未熟だから未だやりたかったことや理想には到底たどり着けていないけど…。
一部の必要とされる部分だけを見るのではなく、全体を見ながら、その本質(訴えの核となる部分など)を考える。
そのためには、思考する根幹の部分や思考を展開していくための基となるあらゆる要素を知識と経験として必要になっていていくことに歩みながら気づかされていった。
きっと、何かを成していくために必要な要素は、やりたい事などの好きなことだけに全てが含まれるわけではなく、考え方によっては、苦手なところに必要なことが多く含まれているような気がするのは、14年間を振り返ることでもみえてくる。
とはいえ、この14年間そんな勇敢に挑んでいったわけではなく、自分のキャパを超えるようなことを突きつけられては、時にそれを逃げずに向き合おうとしたり、時にグダグダしながらも乗り越えてきた。
ただ一つ、逃げなかったということだけは言えるかなぁ。
それは、なぜかその問題を乗り越えることさえも愉快な時もあったからかもしれない。
人は期待さないということが、どれだけ自分が持つ力を削いでしまうか。
また、“期待されない”ということは、自身の持つ可能性閉じてしまったり、また自身も可能性に気づかないままになってしまう。
ある意味、期待されることは、自身を磨くことに繋がるのだろう。
自身のキャパを超えることを突きつけられることは、自分の中で「期待されている」と思えたから頑張れたのだろう。
今まで人に期待されることのない人生を歩いてきたから、自分のキャパを超える無理難題もそれが期待されていると思えて心地良かった。
それを乗り越え成長していく自分が独りよがりにカッコよく感じたし、さらに成長したくて自分に答えなどない無理難題を突きつけては、その答えを探そうとした。
それは、自分に課した課題だけでなく、スタッフにも向けていた。
当時の私を知るスタッフは、きっと絵に描いた餅を焼いて食えと無理難題を突きつけていたように見えただろう…。
「人は理想によって活き活きする」と新渡戸稲造は語る。
しかし、その理想を遠くはるか先にあるモデルをイメージしていた。
だから、活き活きするどころか心がギスギスした。
気づくとモデルになるために理想を追求していた時期だったのかもしれない。
新渡戸稲造の言葉はさらに続く。
「理想は遠い先にあるのではない。いつも、身のまわりにあるもので、大きな仕事も今日の今から始まる」と語っている。
当時を振り返ると目的の喪失ではなく、目的の相違と虚栄心だったのかもしれない。
さらにつづく…。