自分自身を支えてくれる人がいることに、それ自体に気付けるかどうか。
心が弱ってしまうと支えてくれている人がいても見えてこないことがある。
私は、自分を支えてくれる人に気づけなければ、そのまま腐って潰れていってしまったかもしれない。
大学への進学を諦めていた時に、幼馴染の友人と高校の担任が「そのまま夢を諦めていいのか?」と横浜にいた私に連絡をしてくれた。
すぐ帰ってくるようにと言われ、帰ってみると地元の福祉大学へ受験申込書が用意され、あとは自分で書き込まなければならないところのみが残されていただけだった。
リハビリの学校を目指していた私だったがリハビリだけが人を支える仕事ではないと、諭してくれた。
学校に通うお金がなければ、板金屋の社長が支えてくれた。
板金の仕事がない時でも「俺と話をしているだけでも時給になる」と毎日顔を出すようにと声をかけ支えてくださった。
はじめて、ソーシャルワーカーの仕事に就いた時、自分のことしか考えず、仕事の不満ばかり言っては家族に当り散らしていた生きることが不器用な父は、ずっとなりたいと言ってた仕事に就けたんだな。良かったなと、はじめて私を褒めた。
最初の就職は、管理者からの誤解や自身の無謀な正義感から早々に退職。
それを救ってくれたのが、障がい者施設の施設長さん。
なんとか埋もれないように、腐らないようにとモデル事業のデイサービスの施設長さんに掛け合ってくださり再就職。
そこでは、給与が安いからと毎週産院の当直のバイトを所長は探し「なんとか食べていけるか?」と支えてくれた。
その1年半後、施設長さんが定年になる時に「ここで最後まで働くつもりか?」と言われ、「もっとあなたにはやらなければならなことがあるはず」と病院を紹介。
「過去の失敗はずっと付きまとい、烙印を押された人生は、消すことができない。そして、いったん自分の人生の路線から外れると2度と元の水準には戻ることができない」そう思っていた。
「所長さんの言葉は有難いが、権威の世界に居るよりも今の職場でゆるく生活できればいい」そう諦めの気持ちもあった。
たぶんダメ。きっとダメ。無駄な面接と思いながら病院面接に…。
そこで、院長との面接で「以前、無謀なことをして退職したんだって…。」と言われた。
「やっぱりそこか」そう思った。
しかし、院長の言葉は予想に反していた。
院長は「権威に反発し、正義感がなければソーシャルワーカーにはなれないよ。そういうのは、ソーシャル ジャスティスっていうんじゃないのか」と言っていただき、過去の失敗を認めてくださり病院勤務。
院長には考えがあったのにそんなことを理解できない短気な私は、思った部署に就けないことに悩み、また、知識がこぼれ落ちるのが不安になり大学時代に世話になった教授に相談に伺うと、「途中で辞めるな。毒食らわば皿までだ」と叱咤され、「もし、そのままソーシャルワーカーの仕事ができないままであったら、その時は私の教え子の全てを使ってでもお前の仕事は探してやる。がんばれ!」と励ましてくださった。
のちに、自身の望む部署に就くのですが、相変わらずの短気で無謀な正義感は衰えず、ずいぶん地域で暴れ迷惑をかけた。それを、陰でいつも院長は「まだ若いから許してやってくれ」とクレームを言ってくる人々に頭を下げて助けてくれていた。それに気づいたのは、院長が退職する時に当時の上司からそっと教わった。
この法人を立ててからもたくさん支えてもらった。
そして、私が犯す暴挙も許してもらっていた。
私という人物を信じてもらった。
滋賀の先生や先輩からは志を同じくする同志と言ってくださり支えてもらっている。
学会の事務局の方々からも…。
そして、なによりも一緒に働く仲間から日々支えてもらって今の仕事ができていることは、なによりもありがたいことなのです。
さらに、ここには書ききれないほど、たくさんの人が私を支えてくださった。
「お金はなくとも“人の福運”はあるんだ」
「それは爺ちゃんと一緒だ」
そう話してくれたことを今も覚えている。
また「両方を持つことは難しいぞ。でも、お金よりも人だぞ。人に恵まれることが人生には大切なんだ」「葬式の時、お金は払うことになるが、人は、自分に手を合わせ見送ってくれる。葬式は賑やかな方がいいじゃないか」と祖父は言った。
こうして支えてもらって、自分はそれに報いて成長したのだろうか。
また、成長しているのだろうか。
相変わらず、の自分でいる。
変わらないことは良いことかもしれないが、頑固一徹変わらないと古臭くなってしまう。
“変わらない”ためにも“変わらなければならない”こともある。
つづく…。