新しい年が始まって、書き初めに決意を込める人。
初詣で、何かをお願いする人。
人それぞれ新しい年を機に、新しい目標を立てて歩み始めたかと思います。
私の場合は、新しい年を考えるには、先ず振り返りから…。
それがいつもの流れなので、ちょっと振り返ってみますね。
2018年は、当法人としましては、15周年の年で大きな行事行った年でもありました。
私にとっては、2018という数字は、どことなく収まりのよい数字で、何か良いことが起きそうな年として捉えておりました。
しかし昨年は、年が明けてみますと、複雑な想いのままのスタート。
どうも大殺界?(なんだそれは?)そんなの信じな〜い。と、占いを信じないことにした私でも、昨年はいろいろあって、大殺界の言葉が頭の中でチラつきました。
自分は「なんて運がな〜いと思い、なんて星の巡りが悪いのか〜」と嘆きのようなボヤキが思わず口をついて出てくる2018という年の始まりからの流れ…。
でも、ふっと思うのでした。
「お願い」と「良い運とか悪い運」という諦めと結果を待っているだけでは、なんら解決はしないんだと…。
そして、口をついて出てくる嘆きやボヤキは、どんどん自分の心を汚していってしまう…。
ボヤキや嘆きは愚痴みたいなもの。
フロムは「愚痴は破壊性が潜む」と語っているが、なんで愚痴は破壊性が潜むのか…。
人は、物事を言葉にし、口にすればするほど、頭の中でも物事をそう捉えるような思考になったり、その考えが固定観念化していってしまうもの。
なので、愚痴の心がいったんこびりつくと、物事の物の見方は全て悪い出来事として拾いやすくなってしまう。
たとえ良いことがあっても、心は、それには気づけなくなってしまうのです。
そうなってしまうと、心から喜びは消えていってしまうし、感謝の心も薄くなっていってしまう…。
それでも、ボヤかずにはいられず。
愚痴り嘆きたくなることばかり。
だからどんどん後ろ向きになる…。
後ろ向きになると、ボヤキも嘆きも愚痴っぽくなり「だったらいいな」や「きっとそうだよ」中身が、自分の心の中にあるマイナスの思考から、否定的であったりする悲観的な内容ばかりが浮かんできてしまう。
噂話や都市伝説も同じこと…。
気づくと、真実でない話が真実として流れていく。
アメリカのジャーナリズムが調査したら…。
「真実はフェイクニュースが広がるよりも6倍遅い」とのこと。
言い換えれば、フェイクニュースは真実よりも6倍も早く人々に伝わっていくという結果が出たそうである。
笑える都市伝説ならまだいいのですが、笑えない人権に関わることであったとしたら恐ろしいこと。
しかも、流れたその情報は、もう消すこともできない。
これでは、先が見えてこない。
そこには、人の悲観的な感情が影にあるように思う。
悲観主義は内なるものとアランは語る。
そうなのです。
基本、私たちは、悲観的に心は流れやすい。
それは、身の危険を早く察知するために、防御のための動物的本能のようなものなのかもしれない。
楽観主義は、そう思うように自らしなければ楽観的にはなれないとも語っている。
心の赴くままは、ちょっとカッコいいのだけれど、それは、しっかり準備した上で、心が楽観的であるからこそカッコいいのであって、悲観的であれば、心の赴くままに落ちていってしまう。
人間は、臆病になり、挑戦をやめ、希望を捨てて、諦めの心を抱くことによって、自らを不幸にしていってしまうと恩師は語る。
そうならないように、希望を持って前に進むことが大切。
さて、今年は、希望を持って前に進みたいのだけれど、どうしたらいいのだろうか。
この話は、次につづく…。