次の日に書こうとしていたチョコレートドーナツの映画のお話し。
やっと書ける時間ができました。
さて、チョコレートドーナツ。
ここには差別と偏見がたくさんあり、愛情と悲しみが散りばめられています。
そして、正義と言う名のエゴと偏見。
これが正しい事と言う身勝手な正義。
もちろん陥れるのとは違って、正義を行使しようとする人たちは、みんなそれが正しいと思っている。
そんなストーリー…。
1979年の実はに基づいたこの映画は、ゲイに対しての偏見が強い時代背景と薬物中毒や障がい者に対しての偏見や福祉を施設収容がベストとして考えられていた背景があります。
今だからこそ、ゲイをニューハーフとしてちょっとスタイリッシュな言い方であったり、テレビ仁出ていても違和感なく、場合によっては思慮深い発言に耳を傾けるべき存在として見ていますが、当時は“変な人”でありあってはならない“悪”として見ていた時代。
私たちは無意識に分けてしまう。
ドラッグ中毒の母親でさえゲイをさげすんで見る姿はやるせなくなる。
今だからこそ欧米・北欧など子どもを施設に収容することをしなくなり、地域で家庭で暮らすべきとの考えですが、当時は家庭局が子どものためにと施設に入れてしまう。
私たちは、一つの正義を振りかざしたとき、これが幸せだという感情や情緒的判断でそれを行使しようとする。
それが、相手のことをどんなに思っても、その人にはなりきれない。
たとえば、施設へ送ろうとする審理の場面でも、調査員は最初は親代わりになろうとするゲイカップルのエゴと思っていたが、実際にマルコ(障がいを持った子ども)の想いや親代わりになろうとする2人の話を訊いて本当に本人の事を中心に思っていると感じ取る。
私たちは先入観の偏見が事実を歪ませて、普通でいることが正しくて異質なものは修正すべきとの考えになるのだろう。
これは、私たちの高齢者の仕事をする専門職に対しても同様に言えることかも…とドキッとする場面。
本当のことを使える偏見を変える啓発の大切さ。
そこには真剣に訴える私たちの姿が重要になってくる。
この映画の調査員も同様に、偏見から入っても想いを聴いていく事から事実が見えて来るし、想いも伝わってくる。
私たちが仕事上とる生活歴は、その人の年表を作ることではなく、その生活歴の中にあるその人の思いや価値を感じ取るもの出なければならないのなのでしょう。
これは、認知症のアニメーション「しわ」の場面でも見えてくるお話しですね。
偏見はその人の生活歴だけでは見えてこないものであるし、変わらないもの。
生活歴の出来事に、その人はどう思いどう感じてきたか。
それを理解していくところに偏見を変えていくものとなっていくのでしょう。
そして、もう一つ、家庭局や裁判官、検察などこんなゲイといるよりも施設にいた方が幸せと考える姿…。いや、施設にいる方が幸せと考えることさえもしておらず、ゲイと一緒に居てはいけないという理由だけでその人の人生さえ強制的に変えてしまう。
施設が一番?家族と居るのが一番?
そんな形式ではなく、本人の想いは?家族(ここでは母親の思い)は?
そんな問いかけも、この映画の中で見えてくる。
私たちの仕事に置き換えると、そのままこの話も重なって見えてくる。
施設入所は誰が決めるのか?
何を基準に施設と決めるのか?
この映画は、福祉とは何か?
支援とは何か?
片一面では、そんなことを私に投げかけるそんな映画でした。
この映画は語るのが難しい映画です。
言葉にすると想いのすべてが軽くなってしまう。
きっと映画の中身にメッセージがたくさん含まれていて、そして人間の尊厳に関わる事だからかもしれませんね。
尊厳こそ言葉にすると軽くなりますものね。
私が、この仕事を続けようと思う理由。
そこには、似非の正義に対する怒りと尊厳を支えるために自分がすべき事を考えさせられる内容から感じたことなのです。
何度も見たい、大切な映画です。