皆さんの周りには、変わった人はいませんか。
変わった人…。
実は、私自身が変わり者かな。
きっと周りから理解できない存在なのかもしれません。
もちろん、私にとって、私以外の人にも変わった人がいます。
それは、きっと私の理解を超えてしまっている人。
それって、あくまでも、私個人のちっぽけな価値観とその人の価値観が違うだけのこと。
その人にとっては、当たり前のことなのかもしれない。
なのに、ちっぽけな私の持つルールという価値観で、物事を判断するので、変わった人に見えてしまいます。
本当のところは、私の価値観と違うということだけなのに、変な人となっている発想は、ちょっと怖い…。
さて、変わった人?(変わり者?)何と何を比べて変わった人なのだろう。
さきほど述べたように私と相手の価値観の違い?
それとも、広い視点で一般的にみて?
一般社会の何がどこまで正しいのだろう…。
私の価値観と違う?
だからどうなのだろう…。
人は違っていていいんだ!という。
そして、人間の多様性の視点を大切にしょうという。
なのに…。
私たちは、差異を見つけて分けて関わっていないだろうか。
「私と違うあなた」
時に、私と違うことに差をつけ別たりして…。
そう、差別はいけないこと。
でも、自分とは違う部分を指摘することは、差別していることなのだろうか。
差別する心の中に何があるのだろうか…。
そこが問題なのだと思う。
実際には私とあなたは全く違います。
よく、趣味が良く似ているとか、感動するところが一緒とか。
一緒のところがあると共感してもらえたみたいで嬉しいとか。
しかし、きみまろさんではないが、あれから40年洗濯物も別、寝るところも別。
できればお墓も別などという人も増えてきたという。
話は戻ります。
私たちは、違いの意味を理解せず、また直視せず、たまたま見てしまったその差異が気になってしょうがなくなる。
すると、ほかにも私との違いがあるのではないかと探してしまうようになっていく。
もちろん、私との違いを探すことは何ら悪いことではない。
問題は、探してどうしたいのか。
大概は、自分と違うところを探すときは、否定が前提にないだろうか。
自分との差異を認め合った上で、それをその人の個性と見ることはできないだろうか。
そして、それはその人がその人である尊厳の部分に当たるのだということに気づくことはできるだろうか。
障がいは、個性か。
そうとは言い切れない。
あくまでも、表現上に使う言葉。
彼らが、自分でその障がいを個性と見えるように努力をしてきた結果なのかもしれない。
不思議なのは、他者と違うものを持っている人が、個性となるように努力をしなければならない…。
証明しなければならない…。
周りが積極的に受け入れるのではなく、受け入れてもらえるように努力をしなければならない。
引っ越してきたので、仲間に入れてもらえるように、外国籍の人が日本のこの地で受け入れてもらえるように…。
一方的に努力する。
それって、とても違和感がある。
私たちは、違いを理解し、それを受け入れられる人になっていく必要があるのかもしれない。
それはとっても難しいこと。
なぜなら、自身の凝り固まった価値観がそれらを評価していくから。
自分の凝り固まった価値観は、人と会って広がっていく。
変化していくことが、自身の価値観を変えていく。
人は、人によって磨かれていく。
山本有三は、たったひとりしかいない自分をたった一度しかない一生をほんとうに生かさなかったら人間、生まれてきたかいがないじゃないか(人間は路傍の石のように見えても、唯一の存在である限り、精一杯生きることが大切)と語り、小説『路傍の石』で山本有三は「人間はな。人生という砥石でごしごしこすらなきゃ、光るようにならないんだ」と書き留める。
自分と違う人と、苦手な人と会ってみよう。
話をしてみよう。
きっと、自分の人生が、変わっていく。
きっと、その人のいいところが見えてくる。
素敵なところが見えてくる。
気づくと、差異は、個性と見えてくる。
差異は、人間の多様性の考えにつながっていくことに気づくだろう。