世間の流れは、このままどこにいくのだろう。
スポーツの判定が一部の声によって決まる。
それを批判されれば、言葉として表現していないから指示はしていないとして、勝手に忖度をした人がいけないことになっていく…。
見えない力や圧力が人を従わせていくことになる。
そのことを知ってか知らぬのか…どちらにしても怖いことが起きている。
補助金や委託、さらには入学までもが、やはり力がある者のひと声で、予定調和で進んでいく。
壁を作るのも、経済制裁も1人の声で進んでいく
耳ざわりの良い餌を目の前にぶら下げられれば、それを良しとして、問題があってもなかったことにしてしまう人々。流されていれば、自分の身には直接問題は起きないのかもしれない。
しかし、巡り巡っていずれ間接的に自分に戻ってくるのに…。
まるで牙を抜かれた飼いならされた動物の様になってしまっているのかもしれない。
ほんとうは、社会を動かしてきたのは、名もない庶民の苦痛と、どうしようもない思いから発せられた行動からだと歴史の上では知られている。
しかし、どうだろう。
最近のニュースをみていると、社会を動かすのは、一部の利権や権力を持つ者によって動かされているように見えてしまう。
ほんとうのところ、今はどうなのだろう。
黙殺される弱者
声の大きい人の意見が優先される。
LGBTを生産性で語る国民の代表と称される者は、国家にとってどれだけ有益かという観点から優劣をつけて語る。
そうした考えで言えば、いずれ自身が生産性のない障がいが生じた時、また生産性のない高齢者になった時「あなたは生産性がないので、この国にとって不利益な国民なので不要です」と排除されてしまうことになるのだろう。
こうした考えが基にあることをわかっているのかいないのか。
それを賛同する人々もいる。
言論の自由かもしれない。
しかし、言論の自由は人を傷つけても良いとは言われていない。
他人の人権に疎い人は、いずれ、自分の人権が侵されていくことに気づけない。
以前、人権講和で一緒に回らせていただいた人権委員の先生の言葉です。
過去の歴史を見れば、そうやって優生思想という考えが始まり、やがてそうした考えが強まり、ナチスのホロコーストにつながっていったのではなかったのか。
人間の「存在の価値」を大切にする福祉の専門職は、こうした流れの中ででも、1人立ち向かっていくことだと、今は亡き先師より教わった。
先師は、大学教授であっても、目立たず黙々と1人の人を大切に貧困支援に奔走する人だった。
静かに怒り、常に弱者に目を向けて1人を大切にする知と行動の人だった。
しかし、身近にいるはずの最後のセーフティネットである福祉の専門職は、戦うことを忘れた姿を時々見る。
以前、村上春樹は、エルサレム賞受賞式で「卵と壁」と題してスピーチをされた。
それは、以前のつぶやきで書きましたので詳しくは書きませんが、私たちは、どんなことがあっても、卵側にいるし、いるべきなのだろう。
信念の人は、どこにいるのか。
せめて。そういう自分は信念の人でありたいと思うが、さて…私は信念の人であるのだろうか…。
今週は、広島の原爆の日から始まり、一昨日は8月9日 長崎原爆の日と、原爆の記念週でした。
核兵器による最後が被害であって欲しい日。
長崎の平和式典に始めて出席した国連事務総長のグテーレス氏。
「核軍縮プロセスが失速し、ほぼ停止している〜すべての国に対して、急を要する問題として、核軍縮の目に見える進展を!」と訴えた。
真に迫る問題を目前にするからこそ、事務総長は世界へと行動するのだろう。
様々な批判もあるようだが、聞けば、誰が見ようが見まいが、必要であれば、世界の紛争地帯やこうした式典の最前線へと赴き、平和を訴えるために、私たちが知らないところで分刻みで行動しているという。
行動する人への行動しない人からの評論は、傍観者であり的外れであると言わざるを得ない。
どんなことでも、何を言おうが行動する人には勝てない。
信念の人は目立たず耐えて目的のために邁進する。
果たして、自分はどうなのだろう。
そう考える1週間だった。