平和の願いを込めて作られた長崎の平和祈念像
それを造った彫刻家の北村西望氏もその信念の人だった…。
信念の人は、やはり、目立たずじっと耐えて目的を達成する人なのだろう…。
平和祈念像を製作時は、どんなに平和を説いても、ヒマ人の空言ぐらいにしか受け取られない様な雰囲気が世間にはあった」とのこと。
さらに、製作が進むにつれて無関心はやがて理解者になっていった…のではなく、その反対に中傷へと変わっていたそうである。
平和祈念像を見るとわかるが、天を指す右手は、長崎の過去である原爆の脅威を、そして水平に伸ばした左手は長崎の未来を指す平和を意味し、半眼は、戦争犠牲者の冥福を祈っているという。
そうした、願いを祈りを込めて制作している北村氏に対し裸体はダメという注文やそんなもの作ること自体が、お金の無駄使いと非難された。
また、制作アトリエには、石を投げつける者もいたそうである。
時々「いつの世にも、そうした輩はいるんだよ」という声を聞く。
確かにその通りだと思う。
いつの世も、なにかを始めようとすると、評論家の様に評価だけをする者がいる。
自分に関係ないことは無関心のまま…。
しかし、その言葉自体も、実は当事者の視点ではないのでは…。
やはり、どこか評論家の立場でものを見ているのだろう。
なにもせず、平和は待っていてはやってこない。
自分が出来ることは何かと、考え行動すること。
大きな平和運動に関わろうといっているのではない。
自分の身の回りの生活の中でいい。
身近な人を大切に思うこと。
自分と考えの違う人の思いに興味を持って、話を聞くことからでも平和は構築される。
相手のことを知り理解し合う関係の中でこそ、争うことが消え平和への一歩となるのだろう。
今日は終戦記念日
平和を願い、戦争で苦々しい想い、悲しい思いをした地域へ、そして国々へと訪問し続けてきた平成天皇両陛下の追悼式典へ最後のご出席。
終戦50年には「戦争の惨禍が再び繰り返されぬことを切に願い」と一節を加えられ、70年には「ここに過去を顧み、深い反省とともに」と、さらに一節を加えられ最後のお言葉は「戦後の長きに渡る平和な歳月に思いをいたしつつ」と…。
ここでも、行動する人の心からの言葉に偉大さを知る。