秋ですね。
キノコ狩りにぶどう狩り、リンゴ狩りと狩りに出て行く秋。
同じ“カリ”でも、稲刈りも…。
先日、何年ぶりかの稲刈りで、稲アレルギーパンチ!
呼吸困難になるほどの鼻も呼吸もグチャグチャになり、体力を落としたところに、訳のわからない風邪?で久々の大熱…。
さらに…。
ん~秋は夜長…。
今日は訳あって、秋の夜長を寝ずの番…。
他の貯まった仕事に手を付けなければならないのですが、逃避のようにその合間をぬって、ちょっと間が空きましたが、前回の図書館の続きを書きますね…。
さて、前回はTSUTAYAの図書館と鎌倉の教育委員会の発言撤回の意向も、図書館の持つ存在意義が理解されていないのでは?というお話しから、もしかしたら私たちの仕事にも関係している話ではないかというところまでお話をしました。
その続きですね。
図書館の問題も私たちの仕事も、何か行き詰まった状態を打開する方法として、民間活力の投入が何か特効薬のように使われてきている。
その投入は確かに活性化する大きな基となっていることは事実。
しかし、活性化を図ることはできるが、活性とともに何かが置き去りになっていないだろうか?と思うのです。
そこには、活性化が主たる目的となってしまい、そのもの独自の理念や存在する意味。
そして、そのものが持つ主たる使命や責任を置き去りにし、気づくと数字と活性だけが全ての評価となってしまう。
商業的な立場であれば、それが目的でも良いと思う。
いや、それが目的でなければ商業は成り立たないし、それが本望であろう。
しかし、民間活力の投入いう考えは、悪い言い方に言い換えれば「私たちはダメだから民間に」と自身のすべき事を放棄し努力せずにプライドを捨てた姿のように見える。(たぶん、プライドを捨てた意識はなにのでしょうが…。)
そして商業化することが市場原理と考え、守るべき商業化してはならない部分でさえも侵食してしまっている。
福祉の世界もそれに似たところがあるように感じる時がある。
福祉や援助についての根本的な意味や本来の理念を知らない人にとっては、福祉の古臭い理論は、古典的で使えないアンティーク時計みたいに見えるのかもしれません。
そうであれば、目新しいものに意味を感じてしまうのかもしれません。
そもそも昔からある理念やケアのあり方があり、古くから伝えられる根本原理がその新しい理念や考え方があるのですが、それを伝えられなかったり、伝え切れず、またそれを知らないことで、新しい考えや理念がとてもすばらしく思い、そこに心酔していく…。
それで本当にいいのだろうか・・・。
残念ながら、新しいものは最新で先進的で優れたものとして考えてしまう傾向がある。
しかし、それら新しいものは過去の優れた考えの模倣であったり言い換えであったりしているしていることも多いのも現実。
過去の根本を知っていることが重要で、言い換えるなら基礎をしっかり身につけている事が大切なのだと思うのです。
そして、その基礎の上に応用があるわけで、応用が先にあってもそれは行き当たりばったりになりかねず、長続きはしにくい。
以前、中村勘三郎は「型を身につけなければ型破りにはなれない。型を身につけてから、破るから“型破り”っていうんだよ。型がなかったら、そりゃ“形無し”だ」と無着成恭さんが子ども電話相談で話したことを座右の銘にしたそうです。
この言葉がすべてを物語っているように思うのです。
基礎の必要性。
型を身につける事。
それを忘れたときに自己流となり、人の言葉が耳に入らず、指摘には言い訳が生まれてくるのだろう。
「それはわかっている・・・。」「今までの経験からすれば・・・。」「同じ事をくり返して言われて嫌になる(積極的に聞こうとしない)・・・。」などなど。
この言葉や考えは、自分が成長する機会を失ってしまうし、他者も教えることを辞めるだろう・・・。
基礎のないひとは、往々にしてそうした姿に陥るのだろう・・・。
我が振りを考えさせられる秋の夜長…。
TVを見ると80年代のアイドルソング特集…。
本田美奈子のOneway Generationが流れてる…。
今聴いてもすごい歌詞だなぁ…。
80年代か…。
確かにあのときは、必死に生きていたなぁ…。
何につけても一生懸命に…。
人はそんな一生懸命な時間が必ずあったはず。
その時間をきっと呼び覚ませることができるわけで。
でも、どうやって呼び覚ませば良いのだろう?
やはり、秋は考えることをするにはちょうど良い夜長…。