相談というシ・ゴ・ト
人を励ます大切な場所の1つに相談会があります。
相談会は、抱える悩みや人生上困難なことを相談する場所
みなさんは、何かあった時、相談する場所はありますか。
相談するには、相手(専門職)がどんな人かによって影響されたり、相手がわからないと相談しにくかったり、相談したいとは思えないもの。
相談は、自分自身が抱える悩みや人生上の困難なことをお話しをするわけですから、自身のプライバシーを話さなければなりません。
また、そのプライバシーに関わる部分において、自分のことを素直に表現できればいいのですが、大概は自分のことを正直に話すことは難しく、良く見せようと自己正当化したり逆に全てを自分のせいにして正しく自分を見ることができない働きがあるのは必然。
相談は、事実を話してもらって初めて適切な応答ができるのですが、虚勢を張ったり、頭でわかっている理想的な自分をべき論で話しているうちは、なんの解決へと導くことはできない。
ですから、話しやすい環境や対人援助のスタンスなどがとても大切で、中でも私たち専門職は、職務上の守秘義務を強調するのは、プライバシーな部分を話さなければならないことから、安心して真実の想いを語れるように、その1つとして、最低限、守秘が守られていることが大切とする意味が大きい。
クライエントは、相談に行くまでのハードルはたくさんあり、さまざまな抵抗があるのです。
その抵抗感を乗り越えてまでも相談したいという人が相談会に足を運ぶことになるのであろう。
言い換えれば、相談会に来ることができる人は前へ前へと進んで行こうとするエネルギーがまだある人なのかもしれない。
ただ、相談の申し込みができる人のように、相談しようと思う力(エンパワメント)がある人は、なんとか関わることができる。また、抱える課題を整理していくことで、自ら解決へと進んでいける。
しかし、相談をする力さえ出ない状態の人もいる。
もしかすると、相談する力がでない人の方が、パワーレス状態にあるので、抱える課題は複雑で、自ら解決するための支援は悩ましく、本人が解決をしていくには支援する側も大きなエネルギーが必要になってくる。
にもかかわらず、さらに課題なのは、その人は、自ら訴えないので目に触れられることがほとんどない。
なので、そのまま支援を受けることなく落ちていってしまう。
そうした人を、探し出すこと。
それが、私たちに求められることなのだろう。
「相談会があるから来てください」では、「助けて」と訴える力がない人はスルーされてしまう。
待っているだけでは、パワーレスの状態にまで落ちてしまって苦しんでいる人には届かない。
悩み苦しむ人を探し出すことが大切なのです。
声をかけていくことが大切なのです。
それには、普段からのアプローチが必要になってくる。
そうでないと、いざとなった時に「あっ!そうだ!あの人(あの場所)に相談しよう!」とはならない。
地域密着というのは、そういうものなんだと思う。
寄り添うとは、こういうことなんだと思う。
何かあっての行動は、対処であって、地域密着でも寄り添うでもない。
アウトリーチと言いますが、そもそも福祉はアウトリーチでなければならないもの。
古代ギリシャでも、病院という集めて治療をしていたわけでなく、はじめは医師も訪問を主とした往診がはじめだった。
行政的な意味合いの申請主義。
外に出ないで机にしがみついている事務屋のようなエセ社会福祉職には、そうした人を救うことなどできない。
そこに行かなければ、匂いも触覚も目にも見えない。
人は五感で生きている。
その五感でアセスメントをしていかなければ、その人を理解することなどできないのではないだろうか。
下世話な悪口を言うなれば、シートをいくら埋めてもその人の匂いも体温も感じない。
その人の姿が立体的に見えない中で、その人の“生きる”を支えようがないと思うのです。
相談という身近で、目に見えてこないテクニックを使う支援は、簡単に見えるが、そう簡単なことではない。
相談は、支援者のパワーでなんとかなるものではなく、クライエントによるものが大きい。
相談は、クライエントにエンパワメントを湧き立たせ、自律への道を支援する大切なスキルでもある。
そして、そのスキルを発揮するためには、アウトリーチという行動が伴ってさらに威力を発揮することができる。
「人間の中へ」そこにこそ、対人援助の本懐があるのだろう。