しばらくぶりのつぶやき。
より元気になるメッセージをと思って書き始めるのですが、現状の苦境に言葉が出てこない。
前回つぶやいたときからコロナウィルスは深刻化し、今緊急事態宣言の解除という緩和という私たち各個人の判断に任される段階に入ってきました。
さらに警戒をする人、警戒を段階的に緩める人、野に放たれたように野山を駆け回るように街に繰り出す人。
行動は人それぞれの判断に任され、予防と人にうつさないようにそれぞれ努力する段階。
そうした中で、相変わらず私たちの仕事は、緊急事態宣言ままの状態でいかに社会性を取り戻すのかという努力の段階に入ってきました。
ただ、自分の精神的な部分に加え、クライエントをどう支えようかと悩み、感染させないようにと細心の心を砕くそうした状況は、かなりストレス。
しかも、そもそもの支援を推進するための方法や本来の支援のあり方など常に考えている。そんなタイトロープの上を歩いていく感じの日々を多くの福祉の推進者は悩んでいることだろう。
昔から社会福祉は、人権闘争と言論戦で一人ひとりのクライエントを支え、ソーシャルアクションを起こし、さらにはポリティカルアクションを起こしながら、ひとりのクライエントを守るために社会変革を進めてきた。
しかし、このコロナウィルスによって、ソーシャルディスタンスという社会的距離という状況から人との距離を生じさせ、熱く想いを語る時間や場所さえ奪っていってしまった。
家に篭るようになって、DVやさまざまな虐待が壁の中で起き、被害者も加害者も出口のない苦境に追い込まれていっている。
感染者への差別や悪口、さらには嫌がらせが行われている。
過去の歴史から見ても、感染症には常に差別と人権無視がそこにはあった。
ハンセン病もそうだった。
少し前までは、認知症も専門職の中でさえ差別的視点が強かった。
人を差別し排除する。
どんなにその人を排除しても、そのウィルスは消えやしないしその不安は解消されない。
それどころか、その排除や差別は、いずれ自身が感染したらその矛先は自分に向いてくるのではないかという新たな恐怖と不安が心の中で生まれてくる。
自分が感染する怖さよりも、他者にうつしてしまうのではないかという怖さを感じる人と、自分が罹りたくないだけの思いの人との差は大きい。
そう、あまりにも大きいのです。
他者を思う心
そこからでしかこのコロナウィルスの課題は乗り越えられない。
アフターコロナの世界がどうなるかは、ここ一点が分岐点になると言っても過言ではないと思う。
心の中にモヤモヤは尽きない。
もっと明るい言葉が並ぶようにしなければ…。
つぶやきはいつか愚痴の列挙にならないようにしなければ…。
体を蝕むコロナは、いつしか心までやはり蝕んでいくんだと実感するのでした。