先日、先輩のご主人と久々に出会えたことを書きましたが、まだまだ、書ききれていないことがありますのでもう少し呟いてみたいと思います。
若き日の私は、がむしゃらで、なんでもかんでもやってあげなけばとの思いが強かった。
「困っているのに何もしてあげないのは優しくない」そんな思いでいました。
もちろん、先輩はそれを全否定。
「あんたね!全ての人を救おうなんて馬鹿じゃないの!あなたは何人いるの?1人でしょう。全ての人を今のような関わりでやっていけるの!?」「あ〜やだやだ。若い男はやだね~甘ちゃんなんだから〜人生をなめてるわ」と厳しいコメント。それに負けたくないからムキになって働いた・・・。
今思えば恥ずかしい思い出が蘇ります。
想いのケアなのか。理論基づいた根拠のあるケアなのか。
どうしても実践が正しくて、理論家は理想者であって現実を知らない夢想者とみられてしまうところがありますね。
また、教育の現場でも「私は実践をしてきた現場の人間だから」と何年も前の実践を未だに実践者と語ってしまうところにも課題を感じてしまいます。
以前、大学院へ行っていたときに、ある先生は「5年以上現場から離れたらそれはもう現場をやっていたなんて語ってはいけないんだと思う。私は、もう5年も離れてしまったから現場の人間じゃないんだよ。そろそろ現場に戻っていかなければ・・・。」そう語っていました。
問題は、現場が優位で理論家は下位と言うことではないと思うのです。
直接支える現場の人間がいるからこそ、成り立つ支援。
理論家がきちんとした定義や理論を明示するからこそ、適切な支援が成り立っていく・・・。
大切なのは、現場の実践者も理論家もお互いにリスペクトしていることであり、認め合う関係を作っていくことなのだと思うのです。
現場で実践するものは、理論的な考えがないところの実践は行き当りばったりとなってしまうものですからね・・・。
さてさて・・・。
若き日の私は、何かをしてあげる事が一番と思っていた訳ですが、本当の支援者は、もうちょっと違うものなんだと理解し始めたとき、やっと先輩の言葉の意味が理解できてきました。
支援は複雑になっている人間関係や問題を自身の力で解決していけるように、自身の力で考えていけるように支え、励ますものなのではと思うのです。
私たちは支援者として、本人や介護者家族を支えてきているわけです。
なのに…がむしゃらなのか無知なのか・・・プロフェッショナルにはほど遠い位置にいながらプロだと思ってしまってて、結構強気で仕事をしていて、さらにできていると思い、先輩に指摘されても納得ができるわけもない・・・。
しかし、素人のプロ意識なんですよね。
いざ、実践のケアで、難しいケースに出会ってしまうと、どう対応したらいいのかがわからなくなってしまったり、なんとしてもこの問題を解決してなければならないとの思いから手を尽くす。
上手くいくとホッとする。
でも、なぜ上手くいったのか理由がわからない。
だからいつまで経っても満足感がなく、自信が持てない専門職となってしまう。
でも次から次へとクライアントはやってくるので、解決するために、即効性のある支援方法を求めるような、ある意味結果を出すための魔法の言葉や支援テクニックを求めてしまいがちになってしまう自分がいたのでした。
理論的な話しは回りくどく、即効性のないような話は嫌ですし、嫌がられるもの。
でも理論的根拠のないケアは、私たち自身も自信が持てないし、クライアントに対してもとても不適切なケアを提供していることとなり、とても失礼なことなのです・・・。
若き日の想い出・・・。
誰もが陥ってしまう。
そんな出来事を自身の過去の行動から、恥ずかしくなりながらも懐かしく、そして誰もが素人の時があり、そしてしっかりと指導する人がいて、実践しているかどうかで本物のプロになれるのかどうかの分かれ目になるんだと、春の月と星を見上げながら考え込むひとときでした。