横並びの基準と批判評論の基準、そもそも、その基準はどこからくるものなのだろう。
社会の一般常識からくるものなのか…。
ならば、その社会の常識とは、どこから生まれてきたものなのだろうか。
簡潔に言えば、そこに暮らす一人ひとりの考え方や想いが重なり合い、相乗によってその社会の常識となって形作られていくのだろう。
言い換えれば、何かの法律やルールみたいなものや誰かひとりの意見で常識というものが形作られるのではなく、私たちが社会で生活する中で人間相互の交流によって組み上げられていくものなのだろう。
それ故に、個々の考えや思考の仕方は様々であっても、その人間交流の中で角を削られ様々な意見から色が付き、大筋の常識というものができてくる。
でも、あくまでも様々な人々の意見の大筋のであるわけですから、その大筋から離れた意見もあって当然ですし、真逆の意見がない方がおかしいこと。
その個々の意見は、フッと降って湧くように思いつくのではなく、私たち日々生活する中で、積み重ねられた経験やそれに対する判断となった知識や哲学(論語や儒教、宗教哲学など様々な考え方を含めて考えられる)そして何より、その意味を教える両親や友人、先輩、恩師からの影響が、自身の考えや倫理観として基礎を作っていくのであろう。
だからこそ、個人差があり、様々な意見が出来てくる。
ならば、岸井さんの帽子の意見もその1つとすれば良いのか。
例えば、佐賀県の自衛隊ヘリの墜落において、家に一人でいた女児(11)は軽傷で奇跡的に難を逃れた。翌日、父の「許せないですよね」というコメントが新聞で報じられると、ツイッター上に「何様? 墜落して亡くなった隊員の事考えねーのかよ」「わざと落ちた訳じゃないし、許せないの意味が分からん」「死ななかっただけいいじゃないか」という非難の投稿があふれたと報じた毎日新聞の記事。
これも1つの意見として受け止めるで良いのだろうか…。
以前にも、ネットの匿名性の危険はつぶやきでも触れたかと思う。
しかし、こうした言葉が踊るのは、炎上目的と考えれば放置しておいた方が、鎮火は早いかもしれない。
ただ、こうした発言や考えは、倫理に反するということに繋がるため、そのまま放置することの課題は大きい。
先ほど述べた、私たち日々生活する中で、積み重ねられた経験やそれに対する判断となった知識や哲学。そして何より、その意味を教える両親や友人、先輩、恩師からの影響。
その部分が大きく影響されていて、自分の意に沿うか沿わないかという基準のレベルで判断されていることの方が多いような状況にあるのです。
もちろん、個々の意については、個々の価値基準ですから、それを形成してきたその人が生きてきた経験や歴史的価値観が大きく影響されるものなので、単純な判断ではないのは事実だと思う。
しかし、問題は、その価値基準となる個々の感情論的部分。
前のつぶやきにも書きましたが、「意味のある苦労と無意味な苦労があると思う」と言っていた先輩も自身が経験してきたことを基準に自身の思いを発信したわけですが、そこには普遍的な基準となる哲学があるのではなく、個人の感情であり想いを一般化しての発言となる。
その思いを共有する人が「そうだ!」となるのであれば、その集団の中での共有で留まればいいのですが、それを社会のルールとして流布していくとなると何かおかしなことになってくる。
気づくと、共有できる者は常識者となり、共有できない者は協調性がないとなってしまう。
また、相互に語り合い、理解することを求めずにいたら、それは個人主義ではなく、利己主義となってしまわないだろうか…。
こうした様々な原因や因果を考えると、重要なことは教育ということに繋がる。
ことに、社会教育の意味が大きな意味があることに気づかされるのです。
そして、この社会教育の活動が私たちの行う啓発活動だったりするのです。
さて、書き始めたらきりがない。
とりあえず、私たちの活動のもとにつなげてこの話は、ここまで…。