前回の続き…。
そもそも、この「諦める」という言葉。
仏教用語のようで「明らかに見る」という意味に繋がっていくのだとか。
『人間が抱く苦悩の原因が、様々な物事への“執着する心”にあるのだと“明らかに見て”その執着から離れることを促す」ということを指したようです。
勝手な解釈はできませんが、執着てしまう自分がいるんだな〜と捉えて、その執着する心をどう対処して行ったらいいのかを考え続けていこうということなのかな…と思うところでもあります。
私たちは、何かに執着してしまうと、そのところだけにこだわってしまい、そのこだわりから抜け出ることが難しくなってしまいます。
歳を重ねた高齢者の方々の言葉に「そんなにこだわるな〜」とか「わかった。わかった。しょうがないな〜」などという言葉を時々耳にする。
彼らは、けっして世捨て人であったり努力をしない人ではない。
様々な人生を歩んで、なおも考えた上での言葉であること。
そこには、たくさんの想いから新たな視点を模索する姿があるのだろう。
さて、諦めた先に何があるのだろう。
こだわりを端に置くと本質が見えてくる。
たとえば、介護者の心理ステップでも、3段階目に「割り切り・諦める」と言う部分がある。
この部分があって、はじめて次の段階の「受容」へと進んでいく。
「どうして!」「なんでこんなこと!」と怒り戸惑い、「そういうものではない」「そうじゃないでしょう!」と苦しんでいる時に、私の心の中にある「こうあるべきだ」とか「そうすべきでない」などのこだわりの視点をちょっと端に置いてみましょう。
「しょうがないな〜」と諦めてみましょう。
もちろん、そうしたことで、介護をしなくてすむわけではないのですから、視点を変えるつもりでしょうがないと諦めてみる。
すると、認知症のその人の本当の想いがなんとなく見えてくる。
また頑な心が解けて相手の想いが伝わってくる。
「それって、こういうことだったんだ!」
「な〜んだ、そう思ってたんだ」
「そのひと言は、ほんとうは私のことを思っての言葉だったんだ」
そんな相手の優しい想いが見えてくる。
また不可解な行動には、それなりの理由があったことに気づけたり…。
私自身のこだわりの価値観だけで見ていたら、そうしたことは見えてこないこと。
それを、ちょっと端に置くと見えてくる。
心理ステップの割り切り、諦めの先に受容されてくるのは、そういった意味からの流れから。
ここで大事なことは、諦めると言うことは執着していることを切り捨て、執着するものを無くすではなく、自分自身の中にある執着や自己流の価値観に縛られていることに気づくこと。
そして、それに悩み苦しんでいることに気づけるこの瞬間が、とっても大切な時間なのです。
この気づきと悩む時間があるからこそ、心が大きく成長し相手を理解する力となってくるのです。
そして、悩むからこそ相手の想いに気づき、理解へと繋がっていく。
この心の変化が、相手を受容していく過程へと導いてくれるのです。
それがないと、知識的な理解に留まってしまう。
よくいう「頭では理解できるけど心はついていけない」と言うことになってしまう。
そう考えると対人援助は、人が人の心を成長させる大切な場なのだろう。
こんな、だらしない自分も、この仕事で鍛えられているのだと振り返るのでした。