いつものタリーズ

お客さんが少ないと写真のようなホッとメッセージは心が和みますね。

 

こんなバリスタがひとり、ふたりと増えていったらもっと街は和やかになるんだろうな…。

 

さて、ある会議での出来事の一部の話…。

 

「介護者に苦労をしろと言っているのではない!」

ちょっと感情的な言葉を話し出してしまう専門職。

自分の思いが通じない切なさが感じとれる瞬間のある会議でのやりとり。

めずらしく?なにも言わないでおこうと思った会議での出来事でした。

 

「苦労すべきか?しないべきか?」そんな議論ではない。

そもそも、介護は苦労の連続です。

 

問題は、今の苦労するその先に何があるのか。

介護者は、今、目の前にある労苦に先行きが見えない状況にあり、やりきれない無間地獄を味わっている場合があるわけで、少しでもその先が見えてくることで今の苦しみを自ら整理するきっかけにもなる。

 

私たち支援者として、その先にあるものに目を向け支援しているのだろうか。

 

本に書かれているような、抽象的な“誰か”を支えているのではなく、目の前で悩み苦しむ一人のクライアントを私たちは支えているのです。

 

「苦労を強いるのは良いのか悪いのか?」そうした議論も聞かれる。

しかし、そうした議論もなんとも不毛な議論になってしまう。

なぜなら、その苦労を介護者はどう捉えているのかによって違うわけだから、そうした議論よりも、やはり個々の受け止め方を共有する努力に尽きる。

 

そして、支援者である私たちがこの議論に参加した段階で、私たち支援者のできることの限界が見えていないと、何かをしてあげなければならないという想いばかりが先に行ってしまい、その結果、問題を取り除くことばかりに終始してしまう。

もちろん、緊急的に危機にある問題や課題を取り除くことは絶対に必要です。

しかし、それで終わってしまうのではなく、私たちの本領発揮はここから先のこと。

Milton Mayerofの言うケアの本質を基とした支援スタンスからの課題分析・ニーズの明確化をし、本質的課題を支援していくことが重要だと思うのです。

 

“介護者を支える”そうした想いは間違ってはいないし、当然していかなければならないものです。

しかし、私たち支援者は支援者であって、当事者にはなれない。

また、代わってあげることもできない。

支えるしかない存在であることを念頭に置くと、なんて私たちは無力なんだろうと感じてしまう。

その無力感は心の向き方で介護指導ではなく、相手に寄り添う本質的な表現となって現れてくる。

 

その時に初めて、サービスの提供だけではなく、共に悩み共に涙するしかない事に気づかされるだろう。

そして、そこに至って初めて励ますことの重要性や励ましが大きなエネルギーであることがわかってくるのだろう。

 

「苦しんだ1歩1歩が勝利なのだ」とは、ヘレンケラーの言葉。

 

人間は生涯発達するという生涯発達の視点をなくしてしまったら、介護者の苦労は悪いものにしか見えてこない。

それであれば、このヘレンケラーの言葉も無意味になってしまう。

 

介護者のを理論的に見るのではなく、また、疑似的に当事者になるのでもなく、きちんと目の前の介護者の姿をありのまま受容し、個々に沿った支援の展開をすべきだろうと思う出来事でした…。