スターウォーズは皆さん見てきましたか。

私は、先週の日曜日にプレミアムタイムで見てきましたか。

 

さすが、JJエイブラハム。

謎を残したまま次回作へ。

この作品に対しては賛否両論のようですが、確かに賛否は分かれるかも。

エピソード2・3の人間の心をえぐり出すようなストーリーから見たら今回はちょっと軽く見えてしまうかも知れませんね。

(ネタバレしてはいけないので、書きたいけど、これ以上詳しく書けない…。)

 

でもそれはそれ、面白いことは変わりないです!

どうぞ皆さん見に行って体感してくださいね。

 

さて、年の瀬にもなってきて、今年1年を振り返って考える時期になってきました。

今年は、寒さが今ひとつなのか?

街のクリスマスソングがあまり聞こえなかったせいなのか?

気づくとクリスマスだった感じです。

そして、もうすぐお正月。

 

ですので、今年は振り返ることもなく年末を迎えそうな感じなので、ここで振り返りながらちょっと考えてみようと思います。

 

今年は、とにかく忙しかった。

同時進行の仕事が常に3つ以上あり、あっという間の1年間。

忙しいは心が亡くなると書きますが、その通りですね。

心が亡くなるのです。

 

仕事をこなすことが中心になると心がザラついてきて、気づきの感性も寛容の心も無くなってしまう。

 

今年は「語り合う」ことに、大きな意味があるということを実感する年でした。

 

このところ文章を書くことが続きました。

以前は一つの課題に対しては色々な語り合うことから発想をもらい、それが熟していって文章になっていました。

しかし、最近は自分の中で内発を起こしながらの文章。

読み返すとなんの広がりも情緒的なものもなく、面白みのない文章になっていて、言葉にしながら議論しながら文章化することの意味をひしひしと感じました。

そうした意味からも今年は特に人と語り合うことの大切さを感じました。

 

今年は、仕事の打ち合わせもよくしましたが、語り合うことは少なかったかも。

語り合うことが少なくなると、相手を仕事を遂行するための関わりが中心にとなってしまい相手の心が見えず、想いに添いながらの関係、そして発展的な仕事や深みのある組織構成にもならないものです。

 

語り合わなければ意思が通じ合うこともスムーズに物事が流れることが少ない。

どんなに信頼関係があっても、語り合うことがなければだんだんお互いの距離が出てきてしまう。

ちょっとした距離感があると、意向のズレが生じ不信感へとつながる。

そしてさらに関係の距離は大きく広がっていく。

 

情報伝達なのか。

意思の確認なのか。

それとも考えや想いを交流しそれをさらに深めようとするものなのか?

 

支援者としてのスタンスも同様であって、認知症の人の声を聴く?

家族の想いを聴く?

そうした支援が必要と考えられていますが、聴くは一方通行でその限界がやってくる。

本来は聴くではなく語り合うものであって、語り合うことによって相手の中にある未だ表現できていないことや自身の中にある気付いていなかったことに気づくとができる。

本来の支援とはそういう内在するものへのアプローチでもあるわけで、聴くばかりではニーズに近づくことはとても難しい。

ということは…。

アセスメントシートを埋める作業は聴くばかりで、その内奥へとは入っていけないことがわかる。

そもそもは聴いて埋めるのではなく、語り合う中での作業となっていくことが求められているのでしょうね。

 

そんな自身の問題とケアスタンスとしての語り合うことの意味もう一度考えさせられる年だったと思う。

 

そして、今年は忙しいを理由にできないことが幾つかあった。

それは、慣れるということ。

漢字一つでも“慣れる”と“馴れる”が違うように、たとえば、馴れるは、物や人に対して「違和感や抵抗が薄くなる。なくなる。」や「気にしなくなる」意味。

慣れるは感覚的なもので「わかる」というものであったりコツがわかるみたいな感じのもの。

だから、慣れると馴染みは違うし、馴れ合うのとはもっと違う。

 

仕事が慣れるのは新人からベテランになっていく過程ではとても必要なこと。

慣れることで、自分で判断ができるようになる。

 

しかし、ベテランになった時、“馴れる”が起きてくるのでは?と思うところがある。

仕事がわかって慣れる。

そして、慣れたことで、緊張感が軽くなる。

わかることで、緊張が軽くなり、おっかなびっくりだった不安などからくる感覚や抵抗感もやわらぎ、場合によってはルーティンで仕事ができるようになる。

しかしこの馴れるに移った時、“気にしない”となりイージーミスを繰り返し、大きく転けることになる。

 

慣れから馴れになると、今まで周りに気遣い様子を見ながら自身の位置を確認し動いていた自分が、馴れによって、周りを見なくてもわかるようになり、気づくことが少しずつ変化し“わかる”と“気づかない”が繋がって馴れるへと変化していってしまうのかもしれない。

そうなると、その先は自己流になっていく。

 

そこには自己の固有の価値観や自己流の判断が、本来求めていた目標や目的から離れていっていることに気づけない。

なので、基本がなく中途半端に慣れた仕事ほど、また、そうした基礎が身についていないベテランになるほど、自己流であったり、固執した個人的価値によって仕事をする。

また支援活動をする。

そして、そこには自己満足の結果や視点を間違えた援助を行うことになるのだろう。

 

個人的な偏った視点や自身の限られた世界であることに気づけない中で言う「第三者的に見たら」というものの見方も、とても客観的な意見や気づきが得られたようではあるが、実は何事にも新鮮だった時の気づきから見たら、到底個人的な狭い意見であって、気づきには偏りが生じたものになってしまうものなのだろう。

個人がそういう状態に陥って行く時だからこそ、基本となる価値が必要となるし、それを提示するリーダーの存在が大切になってくるのである。

となると、リーダーの責任は重い。(ただし…リーダーシップがとれ、部下がリーダーをちゃんと見ているかにもよりますが…)

リーダーは常に学び自身を磨き、倫理的視点を持ち続けなければならない。

その基盤となる哲学をしっかり持っていなければ、同様に自己流になったり、個人的価値観によって組織全体を狂わせてしまう。

 

リーダーも、そして組織のメンバーもそれぞれどこを見ているのか?

間違った方向へと進んでいかないように常に立ち返るべきところを忘れずにいることが大切であり、価値と倫理を持ち続ける必要があるのでしょう。

 

倫理…。

今年は生命倫理学会でシンポジストとして参加させて頂きましたが、そこで座長の稲葉先生から「倫理はING~考え続けることの意味」を話されました。

おっと、文章が長くなった…。

今日はここまで…。

この話の続きはまた今度…。