今までの実践から介護家族を支援することについて考える
とても時間がかかってしまいましたが…。
3回に分けてつぶやいている人の心と介護者家族についてつぶやく最後の3回目。
前回は、人の心にある憎しみや怒りなどのことや介護者家族に語りきってもらうこと。
そして、私たちはその想いを共有し理解を示していくとつぶやきました。
今回は、介護者家族を支えるってどういうことなのか最終話として、三日坊主の私が、さらに私見としてつぶやいてみたいと思います。
介護者の想いを語ってもらうこと。
以前、小澤勲先生の物語としての痴呆ケア(痴呆が認知症に名称が変わる前の本ですので、認知症でなく痴呆と記されています。)において、「家族には家族の歴史があり、触れてはならない闇がある」と語られていた。
介護者家族を支援していると、まさにその通りのことと実感する。
しかし、この触れてはならない闇に、問題の解決となる課題が隠れていることも事実。
思わず喋っちゃったという語らせ過ぎさせてしまうのではなく、語りながら課題を整理する展開を相談にて行う。
介護者家族を支えるための相談は、話を聞くだけでなく、整理をしていく課程を相談の中に含めながら、抱える問題に勇気を持って向き合えるように支え励ます支援をすすめていくことにあると思っています。
これが私が行なう家族支援の相談となります。
迷いには答えがなく、解決しがたいが、悩みには答えがあり、解決へと進んでいくことができる。
この話は、以前先輩から教わった言葉。
あれこれと数ある問題に対してどうしたらいいか問題の渦に巻かれているうちは答えが出せないもの。しっかりと、悩みを整理して一つひとつ問題に向き合えば、自ずと答えは見えてくるとのことだった。
言い換えれば、あれこれと問題を挙げてかかえる問題を数えているうちは、問題に取り組めず、解決へと進むことができないけど、自身が抱える絡み合ってしまった問題を整理して、この問題を解決しようと決めたら答えは出せるとの意味と私は捉えました。
悩むことは苦しいこと。
介護者家族にとって、介護する日々は、ときに理不尽で最悪の時間として、捉えることもあるかと思う。
する必要のない苦労と思うこともあるかもしれない。
それをしっかりと話を聴いていく。
絡み合った様々な悩みは、介護のことだけではなく、経済的な悩みや家族ののこと、自身の将来のことや悩みすぎて本来の問題が見えなくなっていることもある。
もちろん、介護者と本人との関係もある。
それを一つひとつ整理していくと、相談のあとに「なんだかスッキリしてきました」とか「なんだか元気になってきました」と介護者の心に力が入ってくるようになってくる。
次は、その思いをしっかりと継続できるように支援していく。
それは、知識や技術を身につけることであったり、自身のやってきたことの他者からの肯定評価であったり。
また、自ら肯定メッセージを発言できるように支えていく。
自己肯定感は、さらに自ら課題解決へと向かう力になる。
推進力になる。
介護者家族の支援をしていると介護をやりきった介護者から気づかされる事がたびたびある。
それは、はじめは混沌とした悩みや苦労の中で立ち止まってしまったり、自身の人間性をのぞき込んでは、振り返り見つめることで自己嫌悪や自信を失ってしまったり。
様々な辛さがひしひしと伝わる介護者も、時とともに、言葉や介護する姿が変わっていく。
そして介護する相手にたいして、介護者ごとに表現は違えども深い優しさが溢れていく…。
その優しさは、凜とした強さが内に秘められたというのか…。
全身全霊で支え疲れた姿なのに、命の力がみなぎるというのか。
清々しく、そして大きな柱のように凜としている。
だいぶ昔のことになるが、私が老健施設に介護者家族の支援をしていたときに、まだまだ荒削りな支援に、介護者の方から「あなたは鬼だ」とお叱りを受けたことがあった。
ちゃんと話を聴けていなかったのだと反省。
その後、支援方法をあらためていった先に、この介護を通じて介護者が変化し、バラバラだったご家族がひとつになっていく過程を目にすることとなった。
介護者家族の支援は、介護者だけではなく、その家族も視野に入れて支援をする。
表現は適切ではないかもしれないが、介護という難問に悪戦苦闘している中で、唯一味方となって支えてくれるはずの身近な家族や親戚が後ろから突っつく指摘が、思わぬ自身への手厳しい攻撃のようになってしまうことがある。
介護者支援とともに、家族への相談を展開する必要もあるのです。
苦労の先にあるもの
介護されてきた介護者に話をお聞きすると、労苦の先にあるものが見えてきたことか。
介護することや進行する病に対して、諦めに近い受け入れる思いなど、様々な介護者家族の言葉に、この困難を受けきる決意のような思いが聞けることが多い。
それは、力強く語る方もあれば、一見弱々しく見える方も、芯には強い決意のような思いが伝わってくる。
そして、なにより、大切な人を支えることの意味を語られる。
人のために悩むそのこと自体が、尊く、人が成長し、人生を豊かにしていく種を植えるということに、気づかされるのである。
そして、かくもこんなに困難が人を強くするのかと、ときより自分が恥ずかしくなるくらいに思うのである…。
どんな言葉を私たち支援者が伝えようとも、介護を仕切った介護者の言葉は重く、介護の事だけでなく人としての振る舞いさえも敬服するほど大きな人格を備えているよう感じるのは、そうした心が、私たちに伝わってくるからなのかもしれない。
きっと、こうした介護者はごく一部なのかもしれない。
でも、だれもがそうなる可能性は秘めている。
介護することが、無意味なことではなく、必ず自身の人生にプラスとなって積み重なっていくということを、また積み重なっていけるように、希望をもち、日々の介護の積み重ねを支える私たちでありたいと思うのです。
そのための相談の実践を
自身が抱える悩みに、素直な気持ちで向き合ってくことで、悩みの解決の糸口がみえてくる。
そして、自身の強い感情的なこだわりをちょっと脇に置いてみる。
凄く難しく、不安になるこれらの行為。
それを1つひとつと向き合えるように支えながら相談をしていく過程が必要になります。
そしてその先は、必ず自ら悩みつつも歩んでいけるようになる。
だからといって、闇雲に介護者家族にもっと悩め!と言っているのではありません。
無闇に苦労しろとか、悩めと、言っているのではない。
やむを得ず、出会ってしまったこの苦労は、自分の人生に大きな幸せとなって返ってくるチャンスだと思えるかどうか。
そう思えるように、この苦しみを乗り越えていけるように、大切な人が支えるのであろう。
その一端に、私たち専門職がいるのだと思うのです。
ちまたに氾濫する「寄り添う」とか「共感する」とか「支える」という言葉。
一緒に悩んでともに立ち上がることをこの言葉にはあると思うのです。
そのためには、私たち支援者は、介護者の可能性・エンパワーメントを信じる事が大切になる。
ただ単に苦労しない方法や避ける方法を探すのではなく、今自身が抱える悩みを厄介なこととして受け止めるのではなく、自身にとって意味ある事へと受け止められるように支えることなのではないだろうか。
そうでないと、目の前にいる要介護の高齢者や障がいなどを抱える人が荷物となってしまったり、その人たちを悩みの種とみてしまいかねない。
誰もが、大切な人を支えたいと思うし、困っている人を助けたいと思っている。
これは断言できる。
なのに、その人たちが原因で、苦しむとなってしまったら、なんて不幸なんだろう。なんて悲しいことなのだろう。
そして、なんともったいないことなのだろう。
この数年前から講義などで恩師から「介護とは、命で命を支える人の究極の振る舞い」と恩師から教わった言葉をお話していたかと思います。
家族支援は、この考え方を一つに入れて考えることを自覚していきたい。
介護者が、介護をやりきった姿は、どんな専門職もかなわないほど、大きな人と成長していることに気づかされます。
これは、積み重ねた労苦がその人を成長させたのだと思う。
ただ労苦が重ねればいいのではない。
自分のための労苦ではなく、他者のための労苦だったこと。
コロナ禍の中、利他の精神という言葉を耳しますが、誰か人のために労苦していく。
そこに、人としての成長がある。
自分一人ための労苦は、満足感は得られるかもしれないが、気づくとその先にはエゴが待っている。
これは、自分が経験したことだからよくわかる。
介護をすることは、自分以外の人のために尽くしていくこと。
介護者には、この時間を、心と心で語り合う大切な時間にしてもらえるように支えていく。
そして、介護の刻まれた時の最期に、
やりきったよ!
よく頑張ったね!
ありがとう。
最期のお別れのときに、また会おう!
お互いにそう言える、そう思える時間がどれだけ大切なことか。
何年も支えてきた介護の意味が、この刻まれる時間の中にあり、そうした時間が持てるように支えていく。
例えば、壊れてしまった家族を無理矢理つなぎ止めることは難しい。
だからいったん施設入所という手段で離れる事も大切。
しかし、離れっぱなしではなく、この距離ができ冷静になっところからお互い家族の再構築の支援は始まる。
離ればなれにはしない。
最期の刻に言葉にならない想いを交わし、言葉を交わす時間が出来るように支えていく。
それができるのであれば、在宅でも施設でもどちらでもよいのだろう。
介護者家族の支援は、今抱える悩み苦しみを自身の力で乗り越えていけるように支援していく私たちでありたいと思うのです。
想いを散りばめた散文になってしまった。
しばらく、文章を書いていないと文章が下手になりますね。
そして、想いはたくさん浮かぶのに言葉が出てこない…。
これが歳というものか…。
認めたくないものだな…。(笑)
次は、介護者家族の支援のおまけの話をちょっとだけお話しします。