「1人の高齢者が他界することは、その地域の図書館が一つ減るようなもの」よく、そんな話を聞きます。

 

上手いこと言うなぁ~と思うのですが、確かにその通り、文章化されていない多くの歴史と知識が一瞬にして消えていくのですから、それは大きな損失ですね。

例えば、戦争体験も。

原爆による被ばく体験や沖縄戦の記憶は、まだまだ語り尽くされていないお話しがたくさんある。その語りを聴き受け止める者、それを語り継ぐ者の存在がとても大切ですね。

 

さて、特別な出来事の語りだけでなく、日々の想いも一人ひとりの人生の中では大きな出来事であり、その語りには一つの大河ドラマに匹敵するストーリーがある。

ただ、その物語にはその人の価値観を基とした葛藤などの感情。

そして、人間模様をつくるこれまた、個々の価値観を持つ周囲の人の情緒的な振る舞いや感情に注目しなければ、大河ドラマみたいなドラマティックなストーリーは見えずらく、感じにくいものなのだと思うのです。

1人の人のドラマは、多くの人々の関わりによって織り成すもの。

でも、その人の想いはその人の視点での物語。

その物語の登場人物は脇役であって、主人公ではない。

 

支援者である私たちは、舞台の上にある木であり、石であり、ベンチなのかもしれません。

それぞれは、強い日差しを遮る木陰をつくり、主人公が歩き疲れた時の思わず腰掛ける傍の石で、そこで人生の重みを知る場所なのかもしれない。

そして、長い人生振り返り、生きてきた想いを整理する時に座っている公園のベンチなのかもしれない。

でも、その存在は、目立たなくとも、ふっと振り返るとなくてはならない存在だった。

そんな存在が支援者としての姿なのかもしれない。

 

どうしても、主人公になりたかったり、主人公の次の存在(助演者)になりたかったら、スピンオフのストーリーをつくって、そこで演ずればいいのだと思う。

 

心に引っかかる出来事があってこんな文章を書いてみました。

ちょっと厳しい文章になってしまったかなぁ…。

考え方はいろいろですから、これもひとつの考え方と思っていただければ良いなぁと思います。