2月20日は社会正義の日(World Day for Social Justice)でした。

社会正義は社会的公正とも訳されていて、社会的に公正な世界を目指す運動の概念として考えられていて、この日世界各地で貧困の撲滅と公平な社会の実現のため、啓発活動が行われました。

 

社会正義という言葉は、このつぶやきではたびたび出てくるお話。

 

私たちは社会正義のもと、弱者立場に立って支援をしてきている自負はある。

しかし、時々どちらが弱者なのだろうか?と迷うこともあるわけで、この“正義”という言葉や概念はとても難しいものなのです。

たぶん、そこで“公正”という言葉に訳されているのかもと思うのですが、その正義とは、以前取り上げてお話をしましたので、今日は正義とは何かではなく、その正義の存在について考えてみたいと思う。

さて、「正義は必ず勝つ!」…とは限らない。

困った時にはどこからともなくやってきて、困った人を救い出す。

そして名前も告げずに去っていく。

でも…多くのアメリカンヒーローは、名前を告げて去る事が多いかな…。

あくまでも影に…はバットマンくらいなのかな…。

でも、名前を告げなくても、見るからに「あれはなんだ!」と思わせるコスチュームを着ているわけで…。

 

いいところ必殺仕事人か、はたまた隠密同心くらい…。

そう考えると、日本人は影に徹して華々しく見せないことが美徳としていた(ここはあくまでも過去形ですね)ところがあるのかもしれませんね。

 

人知れず、コツコツと積み上げていく正義は、目には見えないためにそれを正義とは認識されない。

そして、多くの正義は埋もれていってしまう。

 

しかし、その地道な正義は、時としてひょっこり表に出てくる。

例えば、何か社会的事件やその時代に興味があるタイムリーな出来事をきっかけにひょっこりとマスコミの興味によって表に出てくる。

いや、表に取り沙汰せれるみたい…。

また、その影の人が亡くなった時、今までヒーローとして取り上げもしなかったのに、突然、前から知ってたかのようにヒーローが亡くなったと…。

 

まだ記憶に新しい。

でも、もう一切マスコミには出てこなくなったイスラム国の惨劇の被害者である後藤健二さん。

まさに、この惨劇がなければ、ここまで本も売れなければ、ブログも興味を持たれなかったのかもしれない。

 

 以前も紹介しました後藤さんのツイート。

後藤さんは、ジャーナリストとしての自身の使命感を記していました。

「そう、取材現場に涙はいらない。ただ、ありのままを克明に記録し、人の愚かさや醜さ、理不尽さ、悲哀、命の危機を伝えることが使命だ。でも、つらいものはつらい。胸が締め付けられる。声に出して、自分に言い聞かせないとやってられない」

この苦悩は私たちの仕事にも通じることと思います。

本物の人の言葉は、胸に突き刺さります。

 

しかし、このことも、何かがないと表に出てこない。

ごくごく身近な仲間同士だけの理解者だけに終わってしまうことがある。

そうした残念なことにならないようにしなければ…。

 

よく、私の恩師は、勇者は、人の見えないところで地道にやっている人なんだと。

そして、その誰も見ていないその人をサーチライトで照らし探し出し、最大の賞賛をしていくのがリーダーの役割であると、教わった。

まさにこれをしていくことが大切になってくるんだと思うのです。

それは、コツコツとその人のためにと頑張る介護者、地域で地道に活動する人々に…。

 

そう考えると、正義ってとても弱いものに見えてくる。

正義はやはり弱いものなのか…。

 

やっと、本題のヒーローはいないがヒールはいるの話なんですが、長々書きすぎて文章にならなくなってしまったので、今日はここでストップ。

 

次回につづく…。