先日のジャスティスについて反響と、もう少し読みたいというコメントをいただきました。
また、いくつかの悪に対する怒りのコメントをいただきましたので、もう少しお話をしてみたいと思います。
何が正義で、何が悪なのか?
今の時代、何が悪で何が善なのかもわかりにくくなっている時代でもあるかと思います。
「嘘も100回言えば本当になる」と、ある作家が言ったとか言わなかったとか…。
それが原因で、ある団体が謀略に合うという状況にあったと聞く…。
どんなにそれが嘘でも、相手を陥れる言葉であっても、大きな声で言い続け、それを信じる人が増えてしまえば、それが本当となり相手はその謀略にはまってしまう。
嘘を信じ、相手を否定しその嘘をさらに他の人に伝えた人は、それが嘘と知らなければ悪くないのか?
「知らないんだからしょうがない」なのでしょうか。
たとえば、今問題になっているLINEのいじめも、最初の発端はある意味同じ状況にあると…。
そこには、前回のハンナ・アーレントの言葉として書かせていただきました“思考の欠如”があるのです。
この話は本当なのか。その人を“知らない”けど「そうかもしれない」と思うのか。
“知らない”から「直接聞いてみよう」なのか。
それって、どうなのか考えてみようと思考する事があるのか。
「相手はそれをされたらどんな想いになるのか」と思考することなのではないかと思うのです。
ハンナ・アーレントは思考の欠如と表現し、さらに、“悪意がなく何も考えずに行う悪が最悪の悪”であることを表現していることに、なにか繋がる思いがします。
無意識の悪。
私たち支援者としてで考えると、「私たちは支援者としてすべきことは何か」を思考しているだろうか。
要はすべき事は何かと思考しているかです。
「何ができるか」ではなく、「何をすべきか」です。
さらに「したいか」という私の思いでもなくです。
そして、基本となる支援者としての立ち位置を明確にしての視点はどうかです。
ジェネラリストとしての専門価値と専門役割を基本とした視点はどうかです。
21世紀への警鐘の中でも、「自分の興味やしたい事、できる事ばかりを興じ考えるのではなく、今直面する問題や課題に対して私たちがしなければならないこととは何か」を考える必要性を訴えているように、私たちは今直面する問題の本質をしっかりと見定め、できることばかりをするのではなく、しなければならないことは何かを考え、深く思考する事をしていかなければならないと思うのです。
ですから、最初はそうした深い思考の基に起こす行動や発言であるため、その行為は浅き思考の基に行動する人にとっては、やっかいなことであったり面倒であったり…。
他の人にはその思いは気づいてもらえないことが多いでしょう。
気づいていないことですから、批判もあるでしょう。
でも、深き思考の基に問題の本質を指摘し解決に取り組み続けることがどんなにに大変なことか。
問題や課題を最初に気づき、それに取り組む人は何よりも凄いことであり、先駆者は様々な苦しみを感じながら言い続けていることを絶対に知っておく必要があるのです。
そうしていくことで、敬意や感謝も生まれるからです。
この数年、最近もコピペ問題や不当引用もこの問題に影響していることも気づかされます。
不当引用・やコピペには何ら意識せずに行うのですから敬意も尊敬も感謝もなく使い回しできてしまう。
私も勝手に引用されることが度々あります。
良いことで引用されるならまだしも、正反対な解釈で引用されるのは困ったものです。
そして、さらに困ったことは、まるで自分が気付いたかのように引用している人々がいます。
自分が気づいたように引用し書く人や話す人はわからないかもしれませんが、以外に聞いている人は「あの人の話は誰彼の言葉だよね」とわかってしまう。
また、引用を間違って使ってしまうので話のつじつまが合わず、間違った表現になっている。
“張りぼての引用者”とのレッテルがつくことに気づいていないのかもしれませんね。
不当引用者はそこにはなんの敬意もなければそこには悪意もないのでしょう。
ここに悪の本質が見え隠れするのです。
私が、大学院で研究論文を書かせていただいたときに指導教官に徹底的に指導されたのは「引用することは悪いことではない。悪いことは、誰のどこからの引用かを書かないことである」と。
また「引用は自分がどれでけ多くの情報を参考にし検証しているのかという大切な表現である」ということを教わりました。
要は誰のどこからの引用かを必ず表現することが大切であるということ。
それは、先人に対しての敬意であり感謝であるということなのです。
話が少し逸れてしまったかもしれませんね。
何が正義であるかということを上手く表現できませんが、悪をなさないようにするとすれば、相手のことを思いやり、感謝するという思考が大切なのだと思います。
正義という強い言葉ではなく“正しい事”として言い換えるならば、こうした相手を思いやり感謝し続ける事が人としての大切な振る舞いであり、この継続が良き人の繋がり(連帯)となり、いずれジャスティスに繋がっていくのだと思うのです。
そう考えると…。
先日の七夕の短冊に書かれていた利用者の願い事は、相手を思いやる言葉が多いことは…。
なにか見えてくるも…ありませんか?