新年早々から久々に書き始めたつぶやき。
最後のところにスガシカオのアストライドの歌詞から苦労することについて書きましたが、このところ苦しい想いがいくつか続いている中で、フッと、数年前に大学の先輩に「人は意味のある苦労と意味にない苦労があるんだと思う」という言葉を思い浮かべていました。
先輩の話を聞いていた当時、苦労することに、意味があるかないかなんて境目があるのかな…と思っていた自分がいたことを思い出します。
ちょうど、そのとき先輩は、自分の今いる職場に不満があって「今ここで苦労することって意味がないし、苦労には意味のある苦労と意味のない苦労があって、今の苦労は意味がないと思う」という話でした。
確かに苦労している時って、この苦しみや悲しみは「いつまで続くんだろう」とか「この苦しみに自分が押しつぶされそう」と感じたり、こんな苦しみから早く抜け出たいという思いに駆られてしまうのは、今の自分にも体感的に理解できること。
でも、やはり今でも苦労自体には意味があるかないかなんて境目はないのではと思うのです。
苦労の意味は主観的なもの。
苦労を意味がないと思ったら、その時点で苦労は苦痛であって意味がなくなってしまいます。
でも、苦労に意味があると気づいた瞬間から、その苦労は鍛錬であったり鍛えの意味へと変わってくる。
例えば、桜は暖かくなるから咲くのではなく、桜が咲くためには寒さが必要で、寒さが厳しいほど暖かくなると一気に咲く傾向があるです。
またまた、ビックリなのは、暖かくなって葉桜になった時から休眠物質をため込み、寒くなると休眠打破といって目覚める準備を始めるんだそうです。
寒さが厳しいほど勢いよく咲く。
寒さ=厳しい環境(苦労)は見事で勢いのある花になるための必須条件であること。
「この寒さは意味がない…」「寒くてもうダメだ〜」と諦めた桜はきっと桜は咲かないのかもしれない…。
抑圧された力を爆発させるように見事に咲かせるみたいに人間の人生も同じ意味を持っていると思うのです。
アストライドの歌詞に
困難だって超えていけるよ
倒れたって諦めちゃダメさ
君が思う世界へまず一歩 歩き出すんだ
とある。
そして、繰り返される歌詞には
何度だって、やり直せばいい
何度だって恥ずかしくはないよ
君が思う世界へまず君が歩き出すんだ
とも…。
前に進もうとすると、おおよそ妨げがあり、思うようにはいかない。
たとえば、無風状態の環境でも、自転車をこぎ出せば、向かい風になり、更にスピードを上げれば更に強い向かい風になる。
前に進むということはそういうこと。
風が吹かないときは、もしかすると前に進んでいないのでは…。
進む(生きていく)限りは、苦労がついて回るんだろうね…。
であるならば、その苦労を前提に、励ましの言葉が綴られているのだろうか。
大変なことを取り除くことばかりしていないだろうか。
私たちは、励ます力を持っているだろうか。
励ましは生きる力を増させる大切なもの。
知識や技術の前に、励ますその力を持つことを最優先としたい…。