私たちは、様々な方法でコミュニケーションを駆使し、相手と自分が繋がっていこうとしていきます。
LINEなどのSNSは、その手段の1つとして活用しているのかもしれません。
短い文章では伝えきれないことは、絵文字などを使って微妙なニュアンスを表現して相手に伝えようともする。
そうした絵文字は日本が発祥と言っても過言ではないようで、様々な感情表現に絵文字が使われ、最初の絵文字は♥️マークだったようです。
絵文字は、言葉にならないニュアンスを大切にする日本人らしい表現方法なのでしょう。
しかし、どうだろう…。
様々な手段で、相手に想いを伝えようとするけれど、自分の意思や想いは相手に思ったように伝わっているのだろうか…。
そして、SNSなどをみると、想いやニュアンスを伝えようと、絵文字などで発信することに力を注ぐのですが、私を含めて、どう想いをキャッチするかという相手の想いを受け止めるための努力は発信よりも弱いような気がするのです。
私たちの仕事は、コミュニケーションが6割、7割を占める。
私たちの仕事の中でも、ケアをする時に使うコミュニケーションは、発信よりも受信の方がおおよそ多い。
いや、多い以上に、それが中心なんだと思う。
こうして発信ばかりする私は、受信するアンテナが低いのかもしれない。
昔のアマチュア無線の仲間でアンテナが低く聞き取れないことを「耳が悪い」なんて、あまり良くない表現をしていましたが、聞き取れない、ちゃんと聴いてない自分は、ほんとうに耳が悪いのだろう。
専門職としては、受信がメインであるはずが発信ばかり。
研修での講義も地域での啓発も、やはり発信ばかり…。
教育、指導という発信ばかりの状況にある。
それは、知らず識らずのうちにクセになって、発信ばかりするようになってしまう。
発信と受信のその両方がないと心のバランスを崩してしまうし、なによりも発信ばかりだと、人間は傲慢になっていく…。
また、相手からもそのように見えてしまう。
「先生」なんて呼ばれるようになった時は、もう、その毒に侵されてしまっているときなのかもしれない…。
とはいえ、聴くはとても難しいコミュニケーション。
相手の言葉が、目や耳から入ってきた瞬間に、それら言葉を自分自身の価値観で判断し、相手の真意とは微妙に、もしくは全く違う内容にしてキャッチしてしまう。
いわゆる先入観というものが加わってくる。
それは、一般的に誰でも起きえること。
聴く仕事をする専門職は、それらを意識して自身の持つ価値観などを脇に置きながら、先入観を排除しようと努力する。
それでも人間だからどうしても、自身の価値観に影響されながら心が動いてしまいます。
真実を聴くこと。
しかも、口頭から発する言葉でだけでなく、心の奥にある声と言葉を聴くこと。
聴くは、伝えるよりも難しく、それができるようになったとき本当の意味での受容ができるようになってくるのだろう。
自分の想いは、ちゃんと大切な人(クライエント)に伝わっていますか。
そして、目の前にいる大切な人(クライエント)の想いは、ちゃんと受け止められていますか。
伝えることと聴くということ。
その繰り返しが会話であって、より深く胸襟を開いて行われる対話へと誘うのだろう。
conferenceやケア会議において自身の専門性や主たる事業を主張する場面が時々ある。
それは、支援体制を整えるために、自身の専門職としての専門性と、その所属する組織(サービス内容)の使命とその責任を明確にし、支援者相互がそれら理解することが目的で、チームケアを展開するためにも、より良い支援体制を整えるためにも必要なこと。
会議であれば、主張は必要。
しかし対人援助の場面として、なによりも人を支え、理解していくための対話が必要な場面では、そうした主張する行為だけでは、何か妙案を生まれさせることは難しい。
また、対話することを避けていては、相手の専門性(尊厳)の否定でもあり、自身の無限に広がるはずの可能性や価値観を閉塞へと進めてしまうことになる。
暑くて、イライラする心は、聴く余裕もないかもしれない。
この時だからこそ、聴くことを考えるチャンスなのかもしれない。
発信が多いこの世界において、受信するという聴くということをもう一度考えてみたい。
対話の大切さをもう一度考える必要があるのかもしれない…。